続『小倉百人一首』
あらかるた
【40】働く皇孫
定年なし、地方赴任あり
ゆきかへり手向けするがの富士の山 けぶりも立ちゐ君を待つらし
(新勅撰和歌集 雑 大中臣能宣朝臣)
行く人も帰る人も手向けして通る駿河の富士の山
煙も立ち昇ってあなたを待っているでしょう
しらざりき田子の浦波袖ひぢて 老のわかれにかゝるものとは
(続古今和歌集 離別 清原元輔)
知らなかったよ 田子の浦の波が(都の)わたしの袖を濡らし
老いての別れにかかって(=かかわって)くるとは
上記の二首は駿河守となって任地へ下って行く
平兼盛(たいらのかねもり 四十)の送別のために、
大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ 四十九)と
清原元輔(きよはらのもとすけ 四十二)が詠んだもの。
生年不明の兼盛ですが、
駿河守に任ぜられたのは六十代後半と考えられています。
同年輩だった元輔は、この齢で別れ別れになろうとは
予想していなかったかもしれません。
本人が引退を表明しないかぎり、官僚に定年はありませんでした。
また官位によっては地方官を命ぜられることも避けられず、
五位だった兼盛はそれまでにも越前や山城の守を務めていました
皇族だった兼盛
兼盛の略歴を事典類で見ると、
臣籍降下(しんせきこうか)以前は
兼盛王(かねもりおう)と称していたと書いてあります。
これは皇族だった兼盛が平(たいら)の姓を賜って
臣下の身分になったことを意味します。
皇子・皇女は親王宣下(せんげ)を受けて親王・内親王となります。
宣下を受けなかった皇子・皇女は王(おう)・女王(にょおう)であり、
兼盛のような皇孫以下の皇族の子女も原則として王・女王でした。
兼盛は光孝天皇(十五)の子孫ですが、
父親の篤行(あつゆき)王ともども平の姓を賜り、
それぞれ五位の位階を授けられていました。
彼らは光孝天皇の子孫という意味で光孝平氏と呼ばれます。
同じ光孝天皇の子孫でも、姓の異なる
源宗于(みなもとのむねゆき 二十八)は光孝源氏です。
光孝天皇の子は五十人ほどいたそうですから、
孫や曾孫となると膨大な人数になります。
ほかの天皇も早世した天皇を除いては子だくさんでした。
財政上子や孫を皇族として養うことができず、
臣下の身分に降ろして働かせていたのです。
位階は一位から三位までが貴族。
四位と五位は通貴(つうき)と呼ばれ、
ほぼ貴族なみの待遇で朝廷の上層部を構成していました。
ただ藤原氏が国の要職を占めていた平安時代、
天皇の子孫といえども三位以上に昇るのは困難でした。
兼盛のような五位の地方官という境遇もめずらしくなかったのです。