続『小倉百人一首』
あらかるた
【43】雀になった中将(前)
左遷の理由
藤原実方(さねかた 五十一)は宮中での粗暴な行いがもとで
陸奥(みちのく)に追いやられ、その地で没した。
辞書の類や百人一首解説本の多くにそう書かれています。
『十訓抄(じっきんしょう)』によれば、
どんな恨みがあったのか、実方は殿上(てんじょう)で出会った
藤原行成(ゆきなり)の冠をいきなり叩き落とし、庭に投げ捨てました。
行成は藤原義孝(よしたか 五十)の子で能書家として知られた人物。
殿上人の冠を落とすのは大変無礼な行為ですが、
このとき行成は少しも騒がず、穏やかな口調でこう言いました。
いかなる事にて候やらん
忽ちにかうほどの乱冠に預るべき事こそ覚え侍らね
その故を承りて後の事にや侍るべからん
(十訓抄 下)
どういうことでございましょう
突然これほどの(冠を乱す)狼藉をお受けする覚えはございません
(しかし)その理由をうかがって今後の参考にいたしましょう
この様子を物陰から見ていた一条天皇は感銘を受け、
行成を蔵人頭(くろうどのとう)に昇進させました。
一方の実方については
「歌枕見て参れとて陸奥国にながしつかはされける」とあり、
左遷されて陸奥に下向し、やがてその地で死んだと記されています。
『十訓抄』はさらに、
実方が蔵人頭になれなかったことを恨んで雀になり、
台盤所(だいばんどころ=台所)で
料理をついばんでいたという話も載せています。
不和のいきさつ
『撰集抄(せんじゅうしょう)』という説話集には
実方が行成に恨みを抱いた理由が書かれています。
殿上人たちが東山に花見に行った際、
思いがけぬにわか雨に見舞われて騒ぎになったのですが、
実方はひとり平然と桜の下に立ち、このような歌を詠みました。
さくらがり雨はふり来ぬ おなじくは濡るとも花の陰にくらさん
(撰集抄 巻八)
どうせ濡れるのなら桜の花の陰で時を過ごそうと。
花の間を漏れてくる雨にびしょ濡れになった実方の風流さを、
同行の人々は感嘆して見ていました。
後日この話が天皇に報告されたとき
蔵人頭だった行成もそれを聞いており、
「歌はおもしろし。実方は痴(おこ)なり」と批判。
それを伝え聞いた実方は、それ以来
行成に恨みを抱くようになったというのです。
馬鹿者と言われたわけですから
事件の伏線としてはもっともらしく思えますが、
『撰集抄』では行成がすでに蔵人頭になっています。
つまり、事件の後の昇進ではないわけです。
また『拾遺和歌集』に上記「さくらがり」の歌とほとんど同じ
よみ人知らずが載っているのも気になるところです。
『撰集抄』の編者、もしくは『撰集抄』に先行するタネ本の著者が
この歌をヒントに東山の花見を創作したのかもしれません。
→後編につづく