続『小倉百人一首』
あらかるた
【46】志賀の山越え
山を越える物詣
百人一首の春道列樹(はるみちのつらき)の歌は
『古今和歌集』から採られたもので、
もともと「志賀の山越えにてよめる」という詞書がありました。
志賀の山越えは京都北白川から滋賀県の琵琶湖方面に向かう道のこと。
途中に天智天皇の創建とされる崇福寺(すうふくじ)があり、
平安時代初期までは多くの参詣客で栄えていたそうです。
山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉なりけり
(三十二 春道列樹)
山中の川に風がつくった柵(しがらみ)は
流れるに流れられない紅葉なのだったよ
列樹が山越えをした目的はわかっていませんが、
この峠道は人の往来が多かったらしく、多くの歌に詠まれています。
源順(みなもとのしたごう)にはこのような屏風歌があります。
《詞書》
西宮左大臣家の屏風に、しがの山ごえに
つぼさうぞくしたる女ども、紅葉などある所に
名をきけば昔ながらの山なれど しぐるゝ秋は色まさりけり
(拾遺和歌集 秋 源順)
名を聞けば昔から知っている山だけれど
時雨の降る秋はいっそう美しいものだ
屏風には山道の紅葉とともに壺装束(つぼしょうぞく)の
女たちが描かれていたのです。
壺装束は女性の外出着で、市女笠(いちめがさ)を被り、
着物の裾を上げて紐で結び、草履を履くのが一般的でした。
絵本の『一寸法師』では、物詣に行く姫君が
たいてい壺装束で描かれています。
順の歌にある「昔ながらの山」は
三井寺の背後にある長等(ながら)の山のことでしょう。
三井寺は正式名を「長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)」といい、
こちらも貴賤男女の信仰を集めていたのです。
吹雪の山越え
時代が下って、鎌倉時代の京極為兼(きょうごくためかね)は
こんな厳しい山越えを詠んでいます。
行くさきは雪のふゞきにとぢこめて 雲に分け入る志賀の山越え
(風雅和歌集 冬 前大納言為兼)
行く先は雪の吹雪に遮られ
雲に分け入るかのようだよ 志賀の山越えは
為兼が向かっていたのは日吉大社(ひよしたいしゃ=山王総本宮)。
すでに衰亡してしまっていた崇福寺の先、
現在の大津市坂本本町に鎮座します。
平安末期から朝廷の厚遇を受けるようになり、
天皇、上皇、貴族たちがたびたび参詣していました。
崇福寺、園城寺、日吉大社と目的地は異なりますが、
都の人々の峠を越えた寺社詣では長く続いたそうです。
気楽な歌、楽しげな歌が多いのは、
春や秋の行楽の一つだったから。しかし、
為兼の吹雪の日吉大社詣では信仰心の強さをうかがわせます。