続『小倉百人一首』
あらかるた
【47】親王の品位
鳥羽の作道と元良親王
吉田兼好が元良親王(もとよししんのう 二十)にまつわる
このような記事を書いています
鳥羽の作道(つくりみち)は鳥羽殿建てられて後の号(な)にはあらず
昔よりの名なり
元良親王元日(がんにち)の奉賀の声甚だ殊勝にして
大極殿(だいごくでん)より鳥羽の作道まで聞えけるよし
李部王(りほうおう)の記に侍るとかや
(徒然草 第百三十二段)
鳥羽の作道というのは鳥羽殿が建てられた後の名ではない。
昔からの名である。
元良親王が元日のお祝いを申し上げた声がたいへん立派で、
大極殿から鳥羽の作道まで聞こえたという話が、
李部王の日記にあるそうだ。
作道は新しく作られた道のこと。
鳥羽殿(とばどの)は白河天皇が造営させ、
譲位後に仙洞(せんとう)御所とした離宮の呼び名です。
大極殿はさまざまな儀式が行われる大内裏の正殿の名。
元日の節会(せちえ)もここで行われました。
天皇が群臣から新年の賀詞(がし)を受けるのですが、
その際の親王の声がよく通り、作道までとどいたというのです。
作道は平安京の南端にある羅城門(らじょうもん)から
南へ延びていました。
北端にある大内裏からは少なくとも四キロメートルは
離れていたはずで、声が届いたとは思えません。
李部王の日記は散逸してしまっており、
兼好の又聞きの記事の所在は確認されていないそうです。
親王の位階
李部王とは醍醐天皇の皇子重明(しげあきら)親王のこと。
役職で三品式部卿(さんぽんしきぶきょう)とも呼ばれます。
元良親王は三品兵部卿(さんぽんひょうぶきょう)です。
「卿」は式部省、兵部省の長官職を示しますが、
「三品」は親王の位階をあらわしています。
これは親王を対象に設けられていた品位(ほんい)という序列。
一品(いっぽん)から四品(しほん)まであり、
数字が小さいほど上位となります。
官人と同じように親王にも品位に応じた位田(いでん)が支給され、
食封(じきふ)が与えられていました。
つまり田地と租庸調を徴収する戸数の割り当てがあったのです。
さらに警固や雑用のための人員も支給されていて、
高級貴族官僚と同様の待遇を受けていました。
二人の親王にはこの品位、官職が限界だったようです。
一品(いっぽん)や二品(にほん)に昇ることができたのは
后(=天皇の正妻)の子に限られていたからです。
とはいえ品位のない無品(むほん)の親王がおり、
親王の称号が与えられない人もいたことを思えば、
二人は恵まれていたといえるでしょう。
※元良親王については旧バックナンバー【20】【130】をご覧ください。