読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【48】淡路島と大和朝廷


鳥淡路島からの貢ぎ物

神亀(じんき)二年(725年)、聖武天皇が難波の宮に行幸した際、
山部赤人(やまべのあかひと 四)がこのような歌を詠んでいます。

 
あめつちの遠きがごとく 日月(ひつき)の長きがごとく
おしてる難波の宮に わご大君(おほきみ)国知らすらし
御食(みけ)つ国 日の御調(みつき)と
淡路の野島の海人(あま)の わたのそこ沖つ海石(いくり)に
鰒珠(あわびたま)さはに潜(かづ)き出
舟並(な)めて仕へ奉(まつ)るが尊き見れば
(万葉集巻第六933 山部赤人)

天地が永遠であるように 日と月が恒久であるように
輝く難波の宮に わが大君は国をお治めになるであろう
召し上がりものを献上する国の 今日の貢ぎ物として
淡路の野島の海人が海の底で 沖の岩場で数多の真珠を採り
船を連ねてお仕え申しあげる尊さを見ると

 
淡路島は天皇の食べ物「御食(みけ)」を朝廷に献上する
「御食つ国」でした。その御食つ国の海人が
真珠を採って天皇に捧げたというのです。

 
食料供給地が重要なのは言うまでもありませんが、
淡路島はさらに重要な意味を持った島でした。
『古事記』などによれば、淡路島は日本で最初に生れた島なのです。

 
伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)の二神は
天の浮橋から矛(ほこ)を垂らして混沌の海をかき混ぜました。
したたり落ちた塩が固まって「おのごろ島」ができると、
二神はそこに下って結婚し、次々と島を生んでいきました。

まず淡道(あわじ=淡路)、次に伊予の島(四国)とあり、
九州、佐渡などに続いて本州を生んでいくのですが、これは
淡路島を拠点にしていた海人集団の伝承が
朝廷の神話に採り入れられたというのが定説のようです。

 
孝霊(こうれい)天皇の妃は淡路島出身だった。
反正(はんぜい)天皇は淡路島に生れた。
允恭(いんぎょう)天皇は淡路島で狩りを楽しんだ。
淳仁(じゅんにん)天皇は淡路島に流された。
これらの伝承すべてが史実かどうかはともかく、
淡路島は早い時期から大和朝廷と密接に結びついていたのです。


歌枕になった淡路島

赤人の歌は天皇の支配が淡路島にまで
及んでいることを知らしめるものでした。
平安時代以降、赤人のような役目を負う宮廷歌人はいなくなり、
淡路島も歌枕の一つとして詠まれるようになっていきます。

 

淡路島かよふ千鳥の鳴くこゑに いく夜ねざめぬ須磨の関守
(七十八 源兼昌)

淡路島から通ってくる千鳥の鳴き声で
幾夜目を覚ましたことだろうか 須磨の関の番人は

 

兼昌(かねまさ)は「関路千鳥」という歌題に応え、
すでに廃止されていた須磨の関と淡路島を組み合わせて
寂寥感ある一首を詠んでいます。

 
淡路島手にとるばかり見ゆれども わたるは遠き波のうへかな
(宝治百首 雑 下野)

淡路島は手にとるようによく見えているけれど
渡って行くには遠い波の上にあるのですね

 
後鳥羽院(ごとばのいん 九十九)に仕えた女房
下野(しもつけ)の歌。時代は鎌倉時代に入っており、
もはや淡路島は遠景になってしまったよう。

今では連絡船やフェリーがあり、立派な橋も開通しています。
淡路島が遠いという実感はないかもしれませんが、
和歌を読んで、昔の人が感じたであろう
旅情に思いをはせるのも面白いでしょう。