続『小倉百人一首』
あらかるた
【49】待賢門院堀河の生涯(前)
和歌でたどる生涯
待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ 八十)は
神祇伯(じんぎはく)源顕仲(みなもとのあきなか)の娘でした。
神祇伯は天神地祇(てんじんちぎ)の祭祀を行う官庁の長官。
朝廷の宗教行事をつかさどります。
貴族の娘で有名歌人だったにもかかわらず
その生涯はほとんど分かっていないのですが、
遺された歌や詞書などからたどってみましょう。
堀河は若いころ令子(れいし)内親王に仕えており、
女房名は六条でした。
令子内親王は白河天皇の皇女です。
賀茂神社の斎院(=祭祀を行う未婚の内親王)を務めていたため、
辞めてからは前斎院(さきのさいいん)と呼ばれていました。
それを反映して《金葉和歌集》の堀河の歌人名は
下記のように前斎院六条となっています。
露しげき野辺にならひて きりぎりすわが手枕のしたに鳴くなり
(金葉和歌集 秋 前斎院六条)
露に濡れた野辺と同じように 蟋蟀(こおろぎ)が
(涙に濡れている)わたしの手枕の下で鳴いています
露に濡れるのに慣れているこおろぎは
手枕を濡らす涙を露と勘違いしているのだろうと。
新人女房だったはずですが、
涙という言葉を用いずに涙を表現した巧みな一首です。
シングルマザーだった堀河
赤人の歌は天皇の支配が淡路島にまで
及んでいることを知らしめるものでした。
平安時代以降、赤人のような役目を負う宮廷歌人はいなくなり、
淡路島も歌枕の一つとして詠まれるようになっていきます。
その後堀河は待賢門院藤原璋子(しょうし/たまこ)に仕えます。
璋子は鳥羽天皇の皇后で、崇徳天皇(七十七)の母でもあります。
女房名は堀河に変わり、おそらくその頃に
結婚、死別を経験したようです。
《詞書》
ぐしたる人のなくなりたるをなげくに
をさなき人の物語するに
いふかたもなくこそ物は悲しけれ こは何ごとを語るなるらむ
(待賢門院堀河集)
言葉にならないほど悲しいというのに
この子は何をしゃべっているんでしょう
「具したる人」は伴侶だった人のこと。
その人の死をわたしは嘆いているのに、幼子は意味も分からず
おしゃべりをしているというのです。
シングルマザーとなった堀河は、子どもを父親のもとに預けて
宮仕えを続けていたと考えられています。
《詞書》
子日(ねのひ)にあたりたりける日 神祇伯顕仲のもとに
やしなひたりける児(ちご)のもとへ申しつかはしける
いざけふは子日の松の引きつれて 老木の千代をともにいのらん
(新千載和歌集 雑 待賢門院堀河)
さあ今日は子の日の松を引く日です
ともに出かけて老木の長寿も一緒に祈りましょう
子日は新年最初の子(ね)の日に野山に出て小松を引く遊び。
おじいちゃん(=顕仲)の長寿も祈りましょうと詠んでいますが、
堀河は我が子とともに楽しむことができたのでしょうか。
→後編につづく