続『小倉百人一首』
あらかるた
【50】待賢門院堀河の生涯(後)
西行との交流
康治元年(1142年)のこと、
仕えていた待賢門院璋子が仏門に入ると、
堀河も同僚の女房たちとともに出家します。
璋子は三年後に亡くなり、悲しむ堀河に
西行(八十六)はこのような歌を届けています。
《詞書》
待賢門院かくれさせおはしましける御あとに
人々またの年の御はてまで候はれけるに
南面の花散りけるころ 堀河の局のもとへ申しおくりける
尋ぬとも風のつてにも聞かじかし 花と散りにし君が行方を
(山家集 中)
尋ねたけれど風の便りにも聞くことができませんでした
花のように散ったあのお方の行方を
堀河の返歌
吹く風の行方しらするものならば 花と散るにもおくれざらまし
(山家集 中)
吹く風が行方を知らせるのなら
(ご主人が)花のように散る後を追ったことでしょうに
詞書の「またの年の御はて」は翌年の喪の明ける時を指します。
西行の歌集『山家集』にはほかにも堀河との
歌のやりとりが記されており、出家後しばらくは
交流があったことがわかります。
久安百首
その後堀河は久安六年(1150年)、
崇徳院(七十七)の命によって編まれた『久安百首』の
メンバーに選ばれ、百首を詠進。
百人一首に採られたのはそのうちの一首でした。
ながからむ心もしらず 黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
(八十 待賢門院堀河)
あなたの心がいつまでも変わらないかどうかわかりません
お別れした今朝はこの黒髪のようにわたしの心も乱れています
題詠ですから実体験とは限らず、
出家しているので乱れるほどの黒髪はなかったはずですが、
実感のこもった後朝(きぬぎぬ)の歌と評価されています。
『久安百首』にはいかにも達人らしい、
こんなユーモラスな一首も収められています。
逢ふ期なきなげきの積もる苦しさをとへかし 人のこりはつるまで
(久安百首 恋)
逢う機会のない嘆きが積もる苦しさを聞きなさい
あなたがすっかり懲りてしまうまで
「逢ふ期」は朸(おうご=天秤棒)との掛詞。
「なげき」は炎に投げ入れる木(=薪)を思わせ、
「こり」は樵りに掛けています。
きつい口調の歌ですが、木の縁語を並べて
読み手をおもしろがらせてくれます。
久安六年以降は年代のわかる資料がなく、
いつどこで何歳で亡くなったのかも不明ですが、
没後まもなく成立したと思われる『今鏡(いまかがみ)』は
「かやうなる女歌よみは世にいで来たまはんことかたく侍るべし」と
最上級の賛辞を贈っています。
※西行との交流は旧バックナンバー【135】参照。