続『小倉百人一首』
あらかるた
【52】歌枕を巡る重之
姿なき浜名の橋
《詞書》
さねかたの君のもとにみちの国に下るに
いつしか浜名の橋わたらむと思ふに
はやく橋はやけにけり
水の上の浜名の橋もやけにけり 打ち消つ波やよりこざりけむ
(重之集上)
水の上の浜名の橋も焼けてしまったことだ
(炎を)打ち消す波は寄せてこなかったのだろう
浜名の橋は浜名湖と遠州灘をつなぐ浜名川に架けられていたもので、
記録によれば長さ約百七十メートル、幅約四メートル、
高さは約五メートルあったそうです。
源重之(みなもとのしげゆき 四十八)は、歌枕になっている
浜名の橋をいつか渡りたいと思っていました。
その後藤原実方(さねかた 五十一)の任地である
陸奥の国に向かうことになったのですが、
すでに橋は焼失していたというのです。
実方が陸奥に赴任したのは長徳元年(995年)のこと。
重之も同じ頃に陸奥に下ったようです。
《詞書》
修理大夫惟正しなのゝかみに侍りける時
ともにまかりくだりてつかまのゆをみ侍りて
いづる湯のわくにかゝれる白糸は くる人たえぬものにぞありける
(後拾遺和歌集 雑 源重之)
いで湯の湧き出る枠にかかる白糸 それを繰るように
来る人が絶えないものなのだったよ
詞書にある「つかまのゆ」は
おそらく『日本書紀』に見える束間温湯(つかまのゆ)のこと。
天武天皇が行宮(あんぐう)を造営させたとされる場所です。
こちらも歌枕だったそうですが、重之はここでも
信濃守として赴任する源惟正(みなもとのこれまさ)に随行しています。
旅の歌は実体験
《詞書》
右馬助にて播磨にくだるに
明石の浦にて夜いと暗きに千鳥なきて沖の方へ出でぬ
白浪に羽打ちかはし浜千鳥 かなしきものは夜の一こゑ
(重之集上)
白波の上を羽を重ね合わすようにして飛んでいく浜千鳥
哀しいのはそんな千鳥の夜の一声だよ
右馬助(うまのすけ)は馬寮の次官。
馬の飼育や馬具の調達に携わる中で播磨に行くことがあったのでしょう。
重之はこのときも明石の浦という歌枕の地で歌を詠みました。
重之は旅の歌が多いと言われますが、
家集などの詞書を見るとその旅は行楽ではなく、
ほとんどが仕事でした。
都の歌人たちの多くは、歌会や歌合のために
見たこともない歌枕を詠んでいました。
しかし重之の詠んだ歌枕はリアルな体験だったのです
※歌枕については旧バックナンバー【3】をご覧ください。