続『小倉百人一首』
あらかるた
			【55】周防内侍 柱の歌
名歌人の旧宅を訪ねて
鎌倉時代の歌人藤原隆信(ふじわらのたかのぶ)の家集に
  このような記述があります。
《詞書》
    むかしすはうの内侍のふる里のはしらに、我さへ軒の
    しのぶ草といふ歌書きおきたるあとの、ちかごろまで
    やぶれゆがみながらありしを、人々まかりて故郷懐旧
    といへることをよめりしに
    これやその昔のあとと思ふにも しのぶ哀れのたえぬ宿かな
    (隆信朝臣集下)
周防内侍(すおうのないし 六十七)の旧宅が
  荒れ果てた状態ながらも最近まで残っており、
  その柱に「我さへ軒のしのぶ草」という歌が書いてあるのを
  みんなで見に行って歌を詠んだというのです。
 
 隆信たちが見に行ったというのはこの歌です。
 
住みわびて我さへ軒のしのぶ草 しのぶかたがたしげき宿かな
    (金葉和歌集 雑 周防内侍)
    住みづらくなってわたしは退(の)くことになったけれど
    軒に生えている忍草のように
    昔をしのぶあれこれの尽きない家ですこと
隆信の歌はこれを踏まえています。
  これが昔あの内侍が住んでいた跡と思うにつけても、
  軒にしのぶ草が茂って哀れさの尽きない家であることだと。
先達を偲ぶ歌人たち
内侍の家の所在地について、隆信の息子
  信実(のぶざね)が著したとされる『今物語(いまものがたり)』は
  「冷泉堀河(れいぜいほりかわ)の西と北とのすみ」と記しています。
  冷泉小路と堀河小路の交差するところにあったのでしょう。
 
『今物語』によれば「建久のころ(1190~1199年)」まで現存しており、
  隆信らが訪れたのがその頃だとすれば、
  内侍の没後八十年は経っていたと思われます。
著名歌人の旧宅を訪ねて歌を詠んだ例はほかにもあり、
  百人一首の恵慶(えぎょう)の歌は河原の左大臣
  源融(みなもとのとおる 十四)の旧宅で詠まれたものでした。
 
 八重葎しげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり
    (四十七 恵慶法師)
    葎(むぐら)が幾重にも茂る寂しい住まいに
    訪れる人の姿はないが 秋だけはやってきたことだ
 
融の邸宅は荒れたとはいえ子孫が寺にして住んでいました。
  しかし周防内侍の家はみすぼらしい廃墟。
  人々はどんな感慨にふけったのでしょう。
  同行していた西行(八十六)はこのように詠んでいます。
 《詞書》
    周防内侍、われさへ軒のと書き付けける古里にて、
    人々思ひを述べける
    いにしへはついゐし宿もある物を 何をか今日のしるしにはせん
    (山家集中)
    かつてはかしこまって座るほどの
    (優れた歌人の住む)家があったというのに
    何を今日の訪問の目印にすればよいのだろう
 
西行の歌からは跡形もないほどに荒れ果てたようすが想像されます。
  名歌人を偲びながらも、世の無常を思い知らされる
  光景だったのではないでしょうか。
