続『小倉百人一首』
あらかるた
【58】無実の流人天皇
穏健派ゆえの退位
百人一首の最後に登場するのは
後鳥羽院(ごとばのいん 九十九)と
順徳院(じゅんとくいん 百)という二人の天皇。
しかしこの二人のあいだには
土御門(つちみかど)という天皇がいました。
土御門天皇は後鳥羽院の第一皇子。
順徳院は二年後に生まれた異母弟で、第三皇子です。
後鳥羽院は天皇という不自由さから逃れるため
十七歳という若さで譲位を決意。
四歳の土御門天皇を即位させ、院政を敷きます。
しかし在位十三年で土御門天皇は後鳥羽院によって退位させられ、
弟が順徳天皇として即位します。
退位の理由については、生来のおだやかな性格が
気性の激しい父と合わなかったためと考えられています。
後鳥羽院はその後討幕計画に専念していきますが、
それに加担したのは弟の順徳院でした。
承久の乱(1221年)に敗れた後鳥羽、順徳の両院は
それぞれ隠岐、佐渡へ流されます。
土御門院は罪に問われませんでしたが
父や弟と同様の流罪を望み、土佐に下って行きました。
自分だけが都に残るのは忍びないと思ったのでしょう。
土御門院が無実の流人となったことは都の人々に広く知れわたり、
院が都に帰還するという噂は絶えることがなかったといわれます。
望郷の日々
日本史の上では後鳥羽院、順徳院ほどの重要人物でなく、
歌人としても百人一首の撰に漏れている土御門院。
しかし遺された和歌には優れた作品も多く、
在位中に内裏で歌合を開催したこともあったようです。
浮世にはかゝれとてこそむまれけめ ことわりしらぬわがなみだ哉
(続古今和歌集 雜 土御門院御歌)
このように(つらい境遇で)あれということで
(わたしは)この世に生まれたのだろう
(その)理由も知らずに流れる我が涙であることよ
自分には宿命だとわかっているが、
涙にはそれがわからず、勝手にこぼれてしまうと。
なんとも切ない擬人化ですね。
一説によれば、この歌は土佐に向かう際に
悪天候に見舞われて詠んだものだとか。
罪なくして遠国(おんごく)に下った土御門院に配慮して、
幕府は院のために立派な住まいを用意していました。
父や弟にくらべれば恵まれた流人だったのですが、
望郷の思いは容易には断ち切れなかったようです。
吹く風のめにみぬかたを都とて しのぶもくるし夕暮のそら
(土御門院御集 詠述懐十首)
風の吹く方角には 目に見えない彼方に都があるのだと
偲びながら眺めるのも苦しい夕暮の空よ
風の吹いてゆくはるか彼方、目の届かないほど遠いところに、
院の思いも風に運ばれていったのでしょう。
父よりも弟よりも早く
三十七歳で世を去ってしまったことを思うと、
その哀しみはいっそう痛切に感じられます。