読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【59】万葉以後 古今以前


和歌の漢訳

百人一首のある歌をもとに作られた
このような漢詩があります。
 

秋山寂々葉零々 秋山(しゅうざん)寂々として葉零々たり
麋鹿鳴音數處聆 麋鹿鳴音(びろくめいおん)するを数処に聆(き)く
勝地尋來遊宴處 勝地(しょうち)を尋ね来て遊宴の処(ところ)
无朋无酒意猶冷 朋(とも)なく酒なく意(こころ)なお冷(さむ)し
(新撰万葉集 巻上 秋)

秋の山は物寂しく葉はしきりに散っている
鹿たちの鳴く声があちらこちらに聞こえる
酒宴のために景勝の地を探しに来たのだが
友もなく酒もなくひとりでは心までも寒い

 
酒宴に適した場所を探しに来たら、
山は落葉し、鹿の声が響いて寂しかったというのですが、
本歌となったのはこの歌です。

 
奥山に紅葉ふみわけ 鳴く鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき
(猿丸大夫 五)

奥山に散り敷いた紅葉を踏み分け
(妻を恋う)鹿の声を聞くときこそ 秋は悲しいと感じるのだよ

 
この漢詩を載せているのは菅原道真(二十四)の撰と伝えられる
『新撰万葉集(しんせんまんようしゅう)』。
宇多天皇が道真に命じて作らせたといい、
『万葉集』以降初の撰集と考えられています。


宇多天皇の企画力

『新撰万葉集』は和歌を万葉仮名で表記し、
それににつづけて上記のような七言絶句(しちごんぜっく)の
漢詩を載せているのが特徴です。

同時代の大江千里(おおえのちさと 二十三)が
漢詩をもとに和歌を詠んでいたのと好対照ですが、
千里の試みも宇多天皇の命によるものでした。
(※旧バックナンバー【79】参照)

宇多天皇は光孝天皇(十五)の皇子。
風流を愛し、譲位後はことに熱心に
和歌の振興に努めたことで知られます。
息子の醍醐天皇が『古今和歌集』の編纂を命じる前に、
宇多天皇が着々と歌集の準備を進めていたのです。

 
次は藤原敏行(十八)が
天皇主催の歌合で詠んだ一首。

しら露の色はひとつを いかにして秋の木の葉をちゞにそむらむ
(古今和歌集 秋 藤原敏行朝臣)

白露の色はひとつなのに
どのようにして秋の木の葉をさまざまに染めるのだろう

 
これが『新撰万葉集』では

白露従来莫染功 白露従来染むる功(いさお)莫(な)し
何因草木葉先紅 何に因(よ)りてまず草木葉を紅(べに)とす
三秋欲暮趂看処 三秋(さんしゅう)看るところ暮なんと欲す
山野班々物色公 山野(さんや)物の色公(おおやけ)に班々とす
(新撰万葉集 巻上 秋)

白露はほんらい染めるはたらきはない
どうやって草木の葉を紅くするのだろう
三秋(¬¬=初秋・仲秋・晩秋)は暮れようとしている
山や野の物はそれぞれさまざまな色に染まっている

敏行の秀歌が漢詩の起承転結の構成にうまく収まっています。

 
これらの漢詩の作者が撰者道真かどうかわかっていませんが、
翻訳というより翻案に近く、独創性が発揮されています。
優れた詩人の作品なのはまちがいないでしょう。