読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【60】古今集を準備した天皇


源氏物語に登場

『源氏物語』に実在の人物の名はほとんど出てきませんが、
例外的な人物がほんの数人います。そのうちの三人が
百人一首歌人の伊勢(いせ 十九)と紀貫之(きのつらゆき 三十五)、
そして宇多天皇(前話参照)です。

その場面は第一巻「桐壺(きりつぼ)」にあり、
帝が愛する更衣(=光源氏の母)を亡くして
悲しみの日々を送るというくだり。

 

このごろ朝に夕にご覧になられる『長恨歌(ちょうごんか)』の御絵
亭子院(ていじいん=退位後の宇多天皇)がお描かせあそばし
伊勢や貫之に詠ませなさった和歌も 中国の詩も
『長恨歌』のような別離の筋のものばかりを
口ぐせになさっておられる
(源氏物語 桐壺)

 
『長恨歌』は玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇を扱った
白居易(はくきょい=白楽天)の漢詩です。
亭子院がそれを屛風絵に描かせ、
伊勢が和歌を添えたというのは『伊勢集』に記述があります。
二人の歌人が亭子院の歌壇で活躍していたのも事実。

『源氏物語』の時代設定をこの場面から推測できるので、
紫式部はおよそ百年前の宮廷を描いたというのが定説になっています。


亭子院の功績

百人一首で亭子院といえば
藤原忠平(ふじわらのただひら)のこの歌を思い出します。

小倉山峰のもみぢ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ
(二十六 貞信公)

小倉山の峰のもみじ葉よ 心があるならば
帝の行幸(みゆき)なさるそのときまで散らずに待っていておくれ

亭子院の大堰川(おおいがわ)御幸(みゆき)に随行していた忠平が、
この紅葉を息子(=醍醐天皇)にも見せたいと
院がつぶやくのを聞いて詠んだもの。

 
また伊勢は亭子院から食事のおさがりを拝領し、
このように詠んでいます。

いせの海に年へてすみしあまなれど かゝるみるめはかづかざりしを
(後撰和歌集 雑 伊勢)

伊勢の海に何年も住んでいる海女ですが
(伊勢という名で長年お仕えしているわたしですが)
このような海松藻(みるめ)を頭にのせたことはありませんでしたのに
(このようなご褒美をいただいたことはありませんでしたのに)

 
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね 二十九)は
御所の屏風の絵に歌を詠めと命ぜられ、

立ちとまり見てをわたらむ もみぢ葉は雨と降るとも水はまさらじ
(古今和歌集 秋 凡河内躬恒)

立ち止まって 見て楽しんでから川を渡ろう
もみじ葉が雨のように降っても水かさが増すことはないだろうから

 
貫之、伊勢、躬恒というそうそうたる顔ぶれ。
亭子院はかれらに機会あるごとに歌を詠ませ、
多くの歌会、歌合を主催して
初の勅撰和歌集編纂の準備を進めていました。

『古今和歌集』の完成は息子醍醐天皇の代になってからでしたが、
和歌を宮廷文学として定着させた亭子院の功績は
今にいたるまで高く評価されています。