続『小倉百人一首』
あらかるた
			【62】百人一首と蓮生法師
息子の義父は僧侶歌人
藤原定家(ふじわらのていか 九十七)の撰による
  『新勅撰和歌集』にこのような贈答歌があります。
    《詞書》
    父みまかりての後 月あかく侍りける夜
    蓮生法師がもとにつかはしける
    山の端にかくれし人は見えもせで 入りにし月はめぐりきにけり
    (新勅撰和歌集 雑 平泰時)
返し
    かくれにし人の形見は月を見よ こゝろのほかにすめる影かは
    (新勅撰和歌集 雑 蓮生法師)
 
  平泰時(たいらのやすとき)は鎌倉幕府三代執権北条泰時のこと。
  その泰時が父義時(よしとき)の没後、
  歌人仲間だった蓮生(れんしょう)に傷心を訴えたのです。
  山の向こうに行ってしまった人にはもう会えないというのに、
  同じ山の向こうに入った月は再びめぐってきたと。
 
 返歌は、その月を亡くなった人の形見としてご覧なさい、
  お父様はあなたの心以外のところには住んでいないのだからと、
  なぐさめる内容になっています。
  「月影が澄む」のを「面影が住む」に掛けて歌を返した蓮生は
  俗名を宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)という武士でした。
  本拠地は宇都宮でしたが、都に長く住んで定家と親交を結び、
  娘を定家の息子為家(ためいえ)に嫁がせています。
  一方の泰時は定家に歌を学んでいたことがあるそうですから、
  定家は弟子と親戚という、ずいぶん自分に近い人物同士の
  贈答歌を勅撰に載せていたことになります。
百人一首成立の謎
定家七十四歳の年の日記に、
  彼入道(かのにゅうどう=蓮生)に頼まれていた
  「嵯峨中院障子色紙形」を「染筆」して送ったという記事があります。
  この色紙が百人一首のもとになったと考えられており、
  嵯峨中院が蓮生の小倉山の別荘を指すことから
  「小倉百人一首」という呼び名が生まれたとも言われます。
 
 また日記には天智天皇(一)から家隆(いえたか 九十八)、
  雅経(まさつね 九十四)までの歌人の歌各一首と書いてあります。
  定家が染筆(せんぴつ=筆で文字を書く)した
  色紙のオリジナルは伝わっていないのですが、上記の記述から
  後鳥羽院(ごとばのいん 九十九)と順徳院(じゅんとくいん 百)は
  含まれていなかったと考えられています。
 
後鳥羽・順徳両院は幕府に敵対した人物でした。
  上述の泰時は幕府側の将軍として後鳥羽・順徳と戦い、
  両院を流罪(るざい)に追い込んだ人物です。
  定家はその友人である蓮生から色紙を依頼されたわけですが、
  両院は定家のかつての主君。
  微妙な立場に置かれていた定家は、
  政治的な配慮から二人を除外するしかなかったのでしょう。
  上記『新勅撰和歌集』にも二人の歌は採られていません。
 
百人一首に二人の歌が加えられて現在の姿になったのは、
  二人が過去の人となって禁が解けてからだと思われます。
  しかしいつだれが完成させたかを知る手がかりはなく、
  複数の推論が出されているのが実情です。
  現在に至るまで広く親しまれている百人一首ですが、
  いまだに解明されていない謎があるのです。
