続『小倉百人一首』
あらかるた
			【64】命を狙われた西行
西行殺人未遂事件
物騒なタイトルですが、
  この話を載せているのは『井蛙抄(せいあしょう)』という書物。
  著者は吉田兼好の友人だった歌人僧頓阿(とんあ)です。
  主人公は文覚上人(もんがくしょうにん)という高僧。
  『平家物語』にも登場する人物で、
  武士だったころの俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)でした。
  日本史に詳しい方はご存知と思いますが、
  頼朝と親しく、源平の争乱に深く関わったことで知られています。
 
  さて、『井蛙抄』によれば
  文覚上人は西行を憎んでいました。
  出家したからには仏道修行に専念するべきなのに、
  風流を求めて歌を詠み、ここかしこさすらうなどもってのほかだと。
  見つけしだい頭を打ち割ってやろうと常々口にしていたため、
  弟子たちはふたりが出会わなければよいがと心配していました。
 
ところがある日、上人の寺で
  法華会(ほっけえ=法華経の講義を行う法会)が催されたとき、
  会衆の中に西行の姿があったのです。
  弟子たちが気づかぬふりをしたのはいうまでもありません。
  そのまま帰ってくれればよかったのですが、
  法華会が終わると西行は、よりによって上人の庵室の前に行き、
  みずから西行であると名のって一夜の宿を乞うたのです。
 
  上人にしてみればチャンス到来。
  障子を開けて出迎え、西行の顔をじっと見つめました。
しかし上人はそのあと西行を招き入れ、
  ご訪問いただいてうれしいなどと言ってもてなすばかり。
  翌朝食事も提供して、何事もなく送り出しました。
 
  弟子たちはほっと胸をなでおろしましたが、
  見つけたら頭を打ち割ってやろうと言っていたはず。
  親しげに話していたのはどういうわけなのですかと問いました。
上人はこう答えたそうです。
  あれが文覚に打たれるような人間だろうか。
  むしろ文覚を打つであろう人間ではないか。
風流と悟り
この話をどう解釈すればよいのでしょう。
  ・文覚は西行の迫力に気おされた?
  ・文覚は西行が自分より修行を積んだ人物だとわかった?
  ・文覚は西行がすでに悟りを得ていると気づいた?
  実際のところ、人により解釈はさまざまです。
  頓阿が文覚の言葉の意味を書いていないのは、
  読んだ人が自分で考えなさいということなのでしょうか。
 
文覚の弟子のひとり明恵(みょうえ→明慧とも)が、
  このような言葉を遺しています。
  風流を求める人の中から立派な仏法者が出てくることは、
  昔も今もあることです。
  詩を作り歌を詠むことはそのまま仏法とは言えませんが、
  こういうことに心を寄せる人が仏法にも心を寄せるなら、
  知恵もあって心遣いもやさしく、気高いものになるでしょう。
  (「明恵上人遺訓」より意訳)
  すぐれた詩人や歌詠みは、心を澄ませて
人や自然のありようを見つめようとするでしょう。
  そこにはふつうの人にはわからないような「気づき」があり、
  世界の見方が変わり、生き方も変わるのかもしれません。
 
文覚は西行の顔を見ただけで、
  常人とはちがう「なにか」を得た人物だと
  察したのではないでしょうか。
