読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【71】信夫の里


しのぶずりは本当に信夫の特産だったのか

陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに みだれそめにし我ならなくに
(十四 河原左大臣)

陸奥のしのぶもじ摺りのようにわたしの心は乱れていますが
(あなた以外の)だれのせいで乱れ始めたというのでしょう

 
左大臣源融(みなもとのとおる)の歌にある
陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ)の里は現在の福島市にあります。
和歌ではおなじみの歌枕で
ここでは捩摺(もじずり)を導くために用いられ、
捩摺はさらに「みだれ」を導いています。

捩摺は忍草(しのぶぐさ)で作った染料を石に塗りつけ、
それを布に転写させる染色法のことだそうです。
別名を忍摺(しのぶずり)というため、
信夫の里の特産と思われるようになったのだろうと言われています。

松尾芭蕉は歌枕歴訪の際に信夫の里に立ち寄っていますが
捩摺を見たとは書いておらず(おくのほそ道)、
捩摺の石らしきものが土に埋もれていたと記しています。

 
さて、地名の信夫は「信夫の里」「信夫の森/杜」
「信夫の浦」や「信夫山」といったかたちで詠まれることが多く、
そのほとんどが「忍ぶ」に掛けた恋の歌です。
信夫に浦があるのか、信夫山という山があるのかとは関係なく、
「忍ぶ」を導くためにだけに用いられています。

うちはへてくるしきものは 人目のみしのぶの浦のあまの栲縄
(新古今和歌集 恋 二条院讃岐)

信夫の海辺の海人の栲縄(たくなわ)が長いように
いつまでもつづいてつらいものは
人目ばかりを気にする忍ぶ恋です


ジョークになった「信夫」

二条院讃岐(にじょうのいんのさぬき 九十二)の
上記の歌を意識したのでしょう、
『徒然草』の恋愛談義の段はこのように始まっています。

しのぶの浦の蜑(あま)のみるめも所せく
くらぶの山ももる人しげからむに…
(徒然草 第二百四十段)

信夫の浦の海人の見る目もうっとうしく
暗部(くらぶ)山も見張りが多いだろうが…

みるめは「見る目」と「海松藻(みるめ=海藻の名)」の掛詞。
暗部山は鞍馬山の別名といわれています。

人目を忍んで通う恋、暗闇に紛れて会う恋は
「忘れがたき」ものと兼好は言い、
親兄弟が認めた恋は「まばゆかりぬべし」、
つまり気恥ずかしいだろうと。

わざわざ信夫の浦を持ち出すこともないのですが、
歌人でもあった兼好としては、
忍ぶ恋と歌枕の信夫は分かちがたく結びついていたのでしょう。

 
時代が下って、
江戸時代の俳文集『鶉衣(うずらごろも)』には
こんなふうに用いられています。

しのぶの浦のみる目はもとより
耳とも口ともつゞけたらむ 歌にもさのみけやけからず
いかなれば鼻といふ名のひとへに俳諧にはとゞまりぬらむ
(鶉衣 鼻箴)

目はもとより 耳だって口だって
歌に詠んで不都合なことはない
どういうわけで鼻という言葉だけが
俳諧でしか使われないのか

 

年齢とともに目はかすみ、耳は遠くなり、
口は歯が抜けてしまうけれど、
鼻だけはいつまでも悪くならないではないか…と、
この後独自の見解が展開されていくのですが、
信夫の浦はただ「目」を導いているだけです。

ふざけているのですが、著者横井也有(よこいやゆう)は
兼好に倣って伝統を生かしています。
信夫が忍ぶ恋に結びつくことを承知していたからこそ、
無理やり鼻の話に結びつけ、意表を突くことができたわけです。