読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【72】朝倉の宮


作者は中大兄皇子?

朝倉や木の丸殿にわがをれば 名のりをしつゝ行くは誰が子ぞ
(新古今和歌集 雑 天智天皇御製)

朝倉の丸木造りの御所にわたしがいるとき
名を告げながら行くのは誰の子だろう

 
『新古今和歌集』に天智天皇(一)御製として載るこの歌について、
鎌倉時代の『十訓抄(じっきんしょう)』はこのように記しています。

天智天皇は「世につゝしみ給ふ事」があって、
筑前の朝倉という所の山中に黒木(=丸木)の家を造らせた。
そして用心のために入来の者に必ず名のりをさせた。
これはそのときの天智天皇の御歌である。
(十訓抄上 第一 可施人恵事)

 
天智天皇が筑前(=福岡県)の朝倉にいたのは
斉明天皇の皇太子だったころ。天智はまだ中大兄皇子でした。
斉明天皇は朝鮮半島の百済に援軍を送るため筑紫(=九州)に赴き、
出陣を前に朝倉の行宮(あんぐう)で病死しました。

行宮は天皇が行幸する途次に用いた仮の御所。
「世につゝしみ給ふ事」は喪に服していたことを指すのでしょう。
 

『十訓抄』は、のちに醍醐天皇が諸国の歌を集めさせた際に、
朝倉の風俗歌(ふぞくうた=民謡)としてこの歌を選んだとしています。
中大兄皇子の歌が朝倉の人々の知るところとなり、
民謡のように広く歌われて定着していたというのです。

平安時代の宮廷は国内各地から民衆歌謡を収集していました。
催馬楽(さいばら)が代表的なものですが、
神楽歌(かくらうた)に加えられた歌もあります。
実際に上記の和歌とほぼ同じ内容の『朝倉』という楽曲があり、
宮廷御神楽の後半に演奏されていました。

天智天皇はたしかに朝倉に縁(ゆかり)のある人物です。
しかし天皇の歌が民謡になったのではなく、民謡から和歌が作られ、
それがいつしか天智天皇の作とされたのだろうと考えられています。
少なくとも『新古今和歌集』や『十訓抄』が成立した
鎌倉時代には天皇御製と信じられていたのでしょう。


神に捧げられた『朝倉』

雅楽の百科事典と呼ばれる『楽家録(がっかろく)』は
『朝倉』をこのように記載しています。

《本歌》
あさくらや きのまろとのにや わがをれば

《末歌》
わがをれば なのりをしつゝや ゆくやたれ
(楽家録巻之三 神楽歌字)

本歌と末歌に分かれているのは
楽人が本方(もとかた)と末方(すえかた)に分かれて演奏したため。
五七五七七になっていないのは、このように歌われたからでしょう。

小夜更けてかへすしらべの琴の音も 身にしみまさる朝倉のこゑ
(久安百首 待賢門院堀河)

待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ 八十)の歌の
「かへす」は、本歌の末の句を末歌の始めに繰り返すこと。
また転調する曲を「返しもの」というそうですから、
曲調が変わって身にしみる雰囲気になったと捉えることもできます。

ことはりや天の岩戸もあけぬらん 雲ゐの庭の朝倉のこゑ
(風雅和歌集 冬 皇太后宮大夫俊成)

決まってるじゃないか 天の岩戸も開いたことだろう
雲の上の(神々の)庭にも朝倉の歌声が届いてるのだから

藤原俊成(しゅんぜい 八十三)は『朝倉』の歌声が
高天原(たかまがはら)の天の岩戸を開くという壮大さ。
もてなした神を天に「かへす」歌でもあったのでしょう。