続『小倉百人一首』
あらかるた
			【73】やさし
優雅で風流な人
「やさしい」という言葉は現在、
  穏やかである、親切である、思いやりがある
  といった意味で使われるのが一般的です。
  しかし平安時代、あるいはそれ以前の「やさし」は
  まったく異なる意味を持っていました。
  源俊頼(みなもとのとしより 七十四)の家集に
  このような歌があります。
 
やさしやな 苔のしとねに散りそむる花を衣にかさねてぞぬる
    (散木奇歌集第一 春)
 
緑なす春の苔(こけ)。それを褥(しとね=敷物)にして、
  散り始めた桜の花びらを自分の着物にかさねて寝る。
  それを俊頼は「やさしやな」と詠嘆しています。
  現代語ならおしゃれだなぁ、風流だなぁといったところです。
西行(八十六)の次の歌も同様です。
 
急ぎ起きて庭の小草の露踏まん やさしき数に人や思ふと
    (山家集 上)
  急いで起きて庭の小草(こぐさ)に置いた露を踏もう
    あの人も風流な人の仲間だと 人が思うだろうから
「やさし」は「やせる思い」だった
 時代をさかのぼると、『古今和歌集』には
  このような「やさし」が出てきます。
  何をして身のいたづらに老いぬらん 年の思はんことぞやさしき
    (古今和歌集 雑 よみ人知らず)
    今まで何をして我が身は無駄に年をとってしまったのか
    年がどう思っているか考えると恥ずかしいよ
  ここでの「やさし」は恥ずかしいとかきまりが悪いといった意味です。
  年齢を擬人化し、年齢に対して恥ずかしいというのです。
  意外な気がしますが、『万葉集』までさかのぼると、
  「やさし」はさらに意外な意味を持っていました。
 
玉島のこの川上に家はあれど 君をやさしみあらはさずありき
    (万葉集巻五854 よみ人知らず)
    玉島の川の上流にわたしの家はあるのですが
    あなたに気後れして(それを)言えなかったのです
    世の中を憂しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
    (万葉集巻第五 893 山上憶良)
    世の中を厭わしく身も細るほどつらいと思うけれど
    飛び立つこともできかねます 鳥ではないので
 
「やさし」は「痩(や)す」の形容詞でした。
  つまり「やせる思い」がもともとの意味で、それが
  つらい→気後れがする→恥ずかしい、というふうに変化してきたのです。
  これほど意味の変遷が大きい言葉もめずらしいかもしれません。
