続『小倉百人一首』
あらかるた
【74】東 歌
はるかな異郷
『古本説話集』にこのような記事があります。
いまはむかし、あづまうどの哥いみじうこのみよみけるがほたるをみて
あなてりやむしのしゃしりにひのつきて
こひとたまともみえわたるかな
あづま人の様によまむとてまことには貫之がよみたりけるとぞ
(古本説話集 貫之事 第二十二)
あづまうどは東人(あずまびと)のこと。
信濃、伊豆、相模、武蔵、上総、下野、常陸など、
都より東の国に住む人を指します。
歌を詠むのがたいへん好きな東人が
ほたるを見て「あなてりや」と詠んだというが、
実際は紀貫之(三十五)が東人のように詠もうとして
詠んだものだそうだ、というのです。
「あなてりや」は「あなてるや」とする本もあるそうなので、
「あな照りや」なのでしょう。
「しゃ」は卑しめたり罵ったりするときの接頭語。
「しゃっつら憎い」の「しゃっ」と同じです。
「こひとたま」は、同話を載せる『宇治拾遺物語』では
「こ人玉」と表記されています。
したがってこの歌は、
ああ光っているなぁ、虫の尻に火がついて、
小さい人魂(=火の玉)みたいに見えているよ、
といった意味になります。
王朝の雅(みやび)にはほど遠い印象ですが、
貫之がわざと粗野な歌を詠んだと、説話集は言っているのでしょう。
失礼な話ですが、都の人々は
東国をはるかな異郷として憧れたり、怖がったり、
面白がったりしていたのです。
民衆の息づかい
東国の歌を東歌(あずまうた)と呼びます。
『古今和歌集』は十三首の東歌を収録。さかのぼれば
『万葉集』の巻十四には二百三十首の東歌が載せられており、
百首ほどある防人歌(さきもりうた)も、東国の民衆の歌でした。
甲斐が嶺(ね)をさやにも見しが けゝれなく横ほり臥せるさやの中山
(古今和歌集 東歌)
甲斐の山をはっきり見たいものだが
心なく横たわって伏せている佐夜の中山であることよ
佐夜の中山は駿河にある東海道の難所のひとつ。
その峠が邪魔で甲斐の山並みが見えないというのです。
第三句の「けけれ」は古代駿河、甲斐地方の方言でした。
東歌には方言や訛りをそのまま用いた歌が多く見受けられます
多摩川にさらす手作りさらさらに 何そこの児(こ)のここだかなしき
(万葉集 巻十四3373 東歌)
多摩川にさらさらとさらす手織りの布のように
さらにさらにどうしてこの娘(こ)がこれほど愛しいのだろう
第二句までが「さらさらに」を導く序詞です。
「ここだ」は「幾許」と書いて数量や程度がはなはだしいこと。
「さら」と「こ」の繰り返しがリズミカルなこの歌は
東歌のなかでも特によく知られた一首です。
東歌は日常の労働を恋の歌に詠み込んだものが多いとも言われます。
民衆の生活に密着した感覚は宮廷歌人、王朝歌人の歌にないもので、
古代人の息づかいをストレートに伝えてくれます。