続『小倉百人一首』
あらかるた
			【76】あくがる
月夜の不在
二条院讃岐(にじょういんのさぬき 九十二)に
  秋の月を詠んだおもしろい歌があります。
    秋の夜はたづぬる宿に人もなし たれも月にやあくがれぬらむ
    (玉葉和歌集 秋 二条院讃岐)
  秋の夜は人を訪ねて行ってもだれも家にいない。
  月に心を奪われてどこかに行ってしまったのだろうというのです。
  そう言う本人も外出しているわけですが、
  「あくがる」には本来の場所を離れるという意味があったのです。
    月を見て思ふ心のまゝならば ゆくへも知らずあくがれなまし
    (金葉和歌集 秋 皇后宮肥後)
    月を見るわたしの心の思いにしたがうならば
    どこというあてもなくこの場を離れていってしまうでしょう
    よしのやま猶しもおくに花さかば またあくがるゝ身とやなりなん
    (新勅撰和歌集 雑 前大僧正慈円)
    吉野山のさらに奥に花(=桜)が咲いたなら
    またさまよい出てしまうことだろう
  肥後(ひご)の歌も慈円(じえん 九十五)の歌も、
  わが身が今ある所から離れてしまうと言っています。
  「あくがる」は魂や心が身体を離れることという解釈もありますが、
  讃岐の歌でも心と身体は一緒に家からいなくなっており、
  分離はしていません。
さまよい出る魂
心と身体が分離しているのは、
  たとえば西行(八十六)のこの歌です。
    あくがるゝ心はさても 山桜ちりなむのちや身にかへるべき
    (新後撰和歌集 春 西行法師)
    さまよい出る心はそういう(=さまよい出る)ものではあるが
    山桜の散った後にはわが身に帰ってくるだろう
 
また藤原俊成(しゅんぜい 八十三)の歌でも、
    わが玉もあくがれぬべし 夏虫の御手洗川に集(すだ)くゆふぐれ
    (俊成五社百首 賀茂)
    わたしの魂も(あのように)抜け出していくでしょう
    夕暮れの(上賀茂神社の)御手洗川(みたらしがわ)に
    すだく夏虫たちのように
 
飛ぶ虫を魂と見た歌といえば、和泉式部(五十六)が
  貴船神社に詣でて詠んだというこの歌がよく知られています。
    もの思へば沢のほたるも わが身よりあくがれいづる玉かとぞみる
    (後拾遺集 神祇 和泉式部)
  恋に悩む心で見れば 沢に飛ぶ螢も
    わたしの身体から抜け出した魂なのかと思えます
  「あくがる」は「あく」と「かる」の合成語と考えられ、
  「あく」は原義不詳ですが、「かる」は漢字で「離る」と表記されます。
  身体や心が本来の場所を離れるわけですから、
  現代語の「憧れる」とはニュアンスが異なりますね。
