続『小倉百人一首』
あらかるた
【77】秀歌撰ばれず
清輔の不運
夕しほに由良の戸わたるあま小舟 霞の底に漕ぎぞ入りぬる
(清輔朝臣集 春)
夕方の潮の満ちた由良の海峡を渡っていく漁師の小舟は
霞の奥深く漕ぎ入って行くのだったよ
春の夕霞の中に消えていく小舟を「霞の底に…」と詠んだ
藤原清輔(ふじわらのきよすけ 八十四)の代表作とされる一首です。
秀歌だと思うのですが、なぜか勅撰和歌集には採られていません。
おなじく梅を詠んだこの歌も
うらうへに身にぞしみぬる梅の花 にほひは袖に色はこゝろに
(清輔朝臣集 春)
どちらもしみじみ感じられるものだ 梅の花は
香りは袖に移り 姿は心に刻まれて
「うらうへ」は漢字では「裏表」と書き、
うらとおもて、上と下、右と左など相対するものを指します。
清輔はここで梅の香りと色(=色彩、風情)を
対句(ついく)にするための伏線として
「裏表に」を初句に置いたのです。
よくできているのに、これも勅撰には入集せず。
撰者たちの目に触れることはなかったのでしょうか。
花咲かぬ我が身
九月九日の重陽の節句に菊が咲かなかったというので、
清輔はこんな歌を詠んでいます。
花咲かで老いぬる人のまがきには 菊さへ時にあはぬなりけり
(清輔朝臣集 秋)
花も咲かずに年老いた人の家の籬(まがき=垣根)には
菊さえも花の時期を外してしまうのだったよ
また
霜枯れの蘆間にしぶくつり舟や 心もゆかぬ我が身なるらむ
(清輔朝臣集 冬)
霜に打たれて枯れた葦(あし)の間で
動きがとれなくなっている釣り舟というのは
思うにまかせぬわたしの身の上のことなのだろう
清輔は顕輔(あきすけ 七十九)の子で、
和歌の名門六条家で指導者的な役割を果たしていました。
しかし父親との折り合いが悪く、
ほかの兄弟に比べて昇進が遅れたのは
父親の助力が得られなかったためと考えられています。
また父顕輔は崇徳院(すとくいん 七十七)の命によって
勅撰和歌集『詞花和歌集』を完成させていましたが、
清輔が二条天皇の命を受けて編纂していた勅撰和歌集は
天皇の死去によって頓挫してしまいました。
その後の勅撰和歌集の編纂事業は
六条家のライバルだった御子左家(みこひだりけ)が主導権を握り、
清輔の六条家は凋落の一途をたどります。
勅撰和歌集に清輔の歌が少ないのは、
そんな事情があったからかもしれません。
※六条家については旧バックナンバー【156】参照