続『小倉百人一首』
あらかるた
【85】かしらの雪
老いを嘆く雪月花
西行(八十六)の家集に「老人述懐」と題する
このような三つの歌があります。
本人は指摘していませんが、順番に「雪月花」が詠まれています。
年高みかしらに雪を積もらせて ふりにける身ぞあはれなりける
更けにける我が身の影を思ふまに 遥かに月のかたぶきにける
散る花も根にかへりてぞ又は咲く 老こそはては行方知られね
(西行聞書集)
年高み」は「高齢になったので」の意。
白髪を雪に見立て、「古り」と「降り」を掛詞にしています。
二番目の歌は年齢が更けたのを「夜更け」に掛け、
傾く月を老年のイメージに重ねたもの。
清少納言(六十二)にも同様の歌があります。
月みれば老いぬる身こそ悲しけれ つひには山の端にやかくれむ
(玉葉和歌集 雑 清少納言)
西行三番目の歌は季節の循環によって再び咲く花と
老いて行くのみの人間をくらべていますが、
比較を用いて老いを嘆くのはめずらしい例。
比喩を用いた歌が圧倒的に多く、なかでも
白髪を霜や雪にたとえた歌が目立ちます。
工夫する歌人たち
老年を意識させるものといえば白髪。
霜と雪がよく詠まれてきたのは自然な流れなのでしょう。
むすび置くかしらの霜のさむけきに 心ぼそくも過ぐる秋かな
(続後拾遺和歌集 雑 藤原基俊)
年を経て若菜は摘めど老いにけり かしらに春の雪つもりつゝ
(基俊集 巻上)
頭に降りた霜が寒々しく、心寂しいまま過ぎて行く秋。
白髪になってからの新春の若菜摘みが、かえって老いを実感させる。
藤原基俊(もととし 七十五)の二首は白髪の比喩の典型的な例です。
春来れどかしらの雪にうづもれて 若菜摘みにも思ひたゝれず
(伊勢大輔集)
雪から縁語の「埋もれ」を導いて沈んだ気分を詠んだ
伊勢大輔(いせのたいふ 六十一)の歌。
若菜摘みに出かける気にもなれないというのです。
「降る」と「経る」「古る」の掛詞が使え、
「埋む」や「積もる」「白」などの縁語も多いため、
雪は誰でも思いつく便利なたとえでした。
しかし壬生忠見(みぶのただみ 四十一)は
稲の縁語を多用してこのように詠んでいます。
秋ごとに刈りつる稲は積みつれど おいにける身のおき所なき
(拾遺和歌集 雑秋 壬生忠見)
刈った稲は積んでおくことができるが、老いた身の置き所はないと。
「おい」は「老い」と「負い」の掛詞です。
常套手段を用いない、巧者らしい仕上がりの一首ですね。