読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【87】西行桜


桜の咎(とが)

世阿弥の謡曲『西行桜(さいぎょうざくら)』は
西行(八十六)と桜が対話するというファンタジックな設定の作品。
登場人物の多いにぎやかな前半と
静かな夜を描いた後半との対比が特徴です。

まず都の男たちがぞろぞろと登場し、
昨日は東山の桜を見に行った、
今日は西山へ西行の庵の桜を見に行くのだと言います。

西行はひとり静かに楽しむつもりだったのですが、
わざわざ都から尋ねて来たという男たちを追い返すこともできず、
しぶしぶながら庭に招き入れることに。
とはいえ歓迎する気持ちがなかったわけですから、
つい内心をこんなふうに歌に詠んでしまいます。

 
花見んと群れつゝ人の来るのみぞ
あたら桜の咎(とが)にはありける

花を見ようとぞろぞろ人が来ることだけが桜の欠点だったと。

夜になり、西行の夢に老人の姿をした桜の精が現れます。
老人から非情無心の草木に罪があろうはずがなく、
良いも悪いも人の心次第ではないかと言われ、
西行も同意するしかなくなります。

老人はそのあと都の桜の名所を数えあげながら舞い、
夜明けがせまる中、姿を消します。


群れない花見

『西行桜』に用いられた歌は
西行の家集『山家集』に収められています。

《詞書》
閑(しづ)かならんと思ける頃 花見に人々まうで来りければ

花見にとむれつゝ人の来るのみぞ あたら桜の咎には有ける
(山家集上 春)

詞書にあるようにひとり静かに花と向かい合うのが
西行の楽しみ方でした。

次の歌も『山家集』からですが、屏風絵を見て詠んだもの。
絵には桜の下に群れ集う人々が描かれ、離れたところから
桜を見る人物も描かれていたそうです。

 
木(こ)の本は見る人しげし さくら花よそに眺めて春をば惜しまん
(山家集上 春)

群れから離れた人の立場で詠んでいます。
またこのような歌も、

山桜咲きぬと聞きて見に行かん 人を争ふ心とゞめて
(山家集下 花十首)

見に行きたいとは思うが、先を争ってまでは行きたくないと。
西行が物見遊山的な花見を好まなかったことがよくわかります。