続『小倉百人一首』
あらかるた
【94】行尊の奇跡
行尊霊夢を得る
行尊(ぎょうそん 六十六)は三条天皇(六十八)の皇子
敦明(あつあきら)親王の孫にあたります。
父は参議を務めた源基平(みなもとのもとひら)であり、
天皇の血を引く高貴な生まれでした。
しかし行尊は幼くして園城寺(おんじょうじ=三井寺)に入り、
十七歳で修行の旅に出ると
十八年も洛中にもどらなかったといわれます。
貴族出身の僧としては前例のないことだったそうですが、
『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』は
このようなめずらしいことがらも記しています。
大峯の神仙に五七日宿したることありけり
是まれなる御事也 同行一人もしたがはず
只独り庵室に居て経をよみ呪をみてゝ日を送り…(後略)
(古今著聞集 釈教)
神仙(じんぜん)は「深山」とも書き、
金峯山(きんぷせん)の七十五靡(なびき)の一つ。
靡は拝所と考えればよいでしょうか。
「呪(じゅ)を満てて」は陀羅尼(だらに=呪文)を唱えたということ。
五七日(ごしちにち=三十五日)かけて祈ったのですが、
ある日庵室に水が流れ込み、居場所がなくなるかとみると、
二人の童(わらわ)が現れて行尊を抱え上げ、
救ってくれたというのです。これは霊夢でした。
このときの歌かもしれない一首が『金葉和歌集』に採られています。
《詞書》
大峯の神仙と云へる所に久しう侍りければ
同行ども皆かぎりありてまかりにければ 心細きに詠める
みし人はひとり我が身にそはねども 後れぬものは涙なりけり
(金葉和歌集 雑 僧正行尊)
仲間だった人は一人としてわたしの傍らにいないけれど
あとに残った(=いま側にいる)ものは涙なのだったよ
同行(どうぎょう)が去っていったのはつらさに耐えかねたから。
一人身命を惜しまず無上道(至高の道=仏道)を求める
行尊に感応(かんのう)した神仏が霊夢を見せたのでしょう。
伝説化した行尊
『金葉和歌集』にはこのような歌もあります。
草のいほを何露けしと思ひけむ もらぬ岩やも袖はぬれけり
(金葉和歌集 雑 僧正行尊)
草を編んだ粗末な庵ばかりが
露が漏れて湿っぽいなどと なぜ思っていたのだろう
露など漏らない岩屋でもわたしの袖は(涙で)濡れるのだったよ
大峰の岩屋で詠んだとあり、
涙が出るほどつらい修行のさなかだったようです。
鎌倉時代の仏教説話集『撰集抄(せんじゅうしょう)』は
これを笙(しょう)の岩屋のこととし、
歌は卒塔婆(そとば)に書かれていたと記しています。
行尊が修行をはじめると
香は心から発して火もないのに煙は絶えず、
花は合掌より生じて春ならずとも咲き、
行尊はここに三年を過ごしたと。
『古今著聞集』は通常の仏教説話として紹介していますが
『撰集抄』は理想的な出家者の姿を描いたもので、
行尊はいっそう霊験あらたかな僧として
神秘化、伝説化されています。