続『小倉百人一首』
あらかるた
【96】空蝉
「うつせみ」は人のことだった
藤原良経(よしつね 九十一)は「夏の恋」の題で
このような歌を詠んでいます。
空蝉の鳴く音やよそにもりの露 ほしあへぬ袖を人のとふまで
(新古今和歌集 恋 摂政太政大臣)
蝉のように鳴くわたしの声がよそに洩れたのか
森の露ならぬ涙に濡れて乾かす間もない袖を
人が訝(いぶか)しんで問うほどに
空蝉(うつせみ)が鳴いたとしたら怪奇現象。
しかし和歌では蝉の脱け殻だけでなく、
生きている蝉も「うつせみ」と呼ぶことがあります。
かつて「うつそみ」という言葉がありました。
現(うつつ)にある身という意味で、
『万葉集』には「うつそみ」とそれが転訛したとされる
「うつせみ」が使われています。
うつそみの人にある我や 明日よりは二上山を弟背と我が見む
(万葉集巻第二165 大伯皇女)
この世の人であるわたしは
明日からは二上山を弟背(いろせ=弟)と思って見よう
大伯皇女(おおくのひめみこ)が大津皇子(おおつのみこ)を
二上山(ふたがみやま)に葬った際に詠んだ一首です。
原文では「うつそみ」を「宇都曽見」と表記しています。
いっぽう「うつせみ」の表記は、
うつせみの命を惜しみ 波に濡れ伊良虞の嶋の玉藻刈り食む
(万葉集巻第一24 麻続王)
この世の命が惜しいがために
波に濡れて伊良虞(いらご)の島の藻を刈って食べているのだ
麻続王(おみのおおきみ)の歌の原文は「空蝉」です。
ほかに「虚蝉」や「宇都世美」とした例もあり、
万葉仮名の表記が一定していなかったことがわかります。
平安時代の「うつせみ」は蝉
『万葉集』の「うつせみ」は
「蝉」の字を用いていても昆虫の蝉とは無関係です。
つまり当て字に過ぎなかったのですが、
「空蝉/虚蝉」の字面(じづら)は
蝉の脱け殻を表すのにぴったりでした。
忘れなむのちしのべとぞ 空蝉の空しきからを袖にとどむる
(素性集)
忘れた後に偲んでくれと思い
空っぽの蝉の脱け殻を袖につけておくのです
哀れといふ人はなくとも 空蝉のからになるまでなかんとぞ思ふ
(玉葉和歌集 恋 忠岑)
かわいそうだと言う人がいなくても
蝉の脱け殻のようになるまで泣こうと思います
百人一首歌人の素性法師(そせいほうし 二十一)と
壬生忠岑(みぶのただみね 三十)の歌。
いずれも「空蝉」は蝉の脱け殻のことで、
この世の生身(なまみ)の人間という意味はありません。
その「空蝉」がなぜ生きている蝉まで指すようになったのでしょう。
蝉の生涯のはかなさ、空しさを思ってその意味を込めたのか、
平仮名で書いているうちにもとの意味が忘れられたのか、
確かなところはわかっていません。