続『小倉百人一首』
あらかるた
【100】忠誠を誓う大伴氏
海行かば
大伴氏と朝廷の関係をうかがわせる
興味深い歌が『万葉集』にあります。
海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば草生(くさむ)す屍
大君の辺(へ)にこそ死なめ
かへり見はせじ
(万葉集巻第十八4094 大伴宿祢家持)
海に戦いに行ってわたしの屍が水に漬かろうとも
山に戦いに行ってわたしの屍に草が生えようとも
大君のおそばでこそ死のう
迷うことはするまい
大伴家持(おおとものやかもち 六)の長歌の一部ですが、
この条(くだり)は家持のオリジナルではありません。
大伴氏の祖先が戦(いくさ)に臨んで唱えたもので、
家持の代まで伝承してきたものなのです。
忠誠を求めた聖武天皇
『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、
聖武天皇は大伴氏に向けた詔書に上記の歌を引用していました。
そして、おまえたちの祖先はこのように歌って
歴代の天皇に忠誠を尽くしてきてくれた。
今後もその心がけを忘れてくれるなと。
家持の『万葉集』の長歌は天皇への返答なのでしょう。
天皇が引用した歌を再び引用した家持は、
さらにこう詠んでいます。
大伴と佐伯の氏は 人の祖(おや)の立つる言立て
人の子は親の名絶たず 大君にまつろふものと言ひ継げる
(万葉集巻第十八4094 大伴宿祢家持)
大伴氏と佐伯氏は祖先の立てた誓い
「子孫は親の名(=代々の家名)を絶えさせず
大君に従うものだ」を言い伝えてきたのです
天皇がおっしゃるとおりですという再確認ですね。
地方官を歴任していた家持は、祖先のようにふたたび
都で「大君の辺」に仕える日が来ると思ったのかもしれません。
しかし聖武天皇はこの直後に亡くなり、
年老いた家持が赴任させられたのは
都を遠く離れた陸奥(みちのく)多賀城(たがじょう)でした。
肩書きこそ征東将軍(せいとうしょうぐん:前話参照)という
勇ましくて名誉あるものでしたが、
事実上の左遷だったとも考えられています。
新興氏族の藤原氏は旧来の有力氏族を周辺に追いやり、
朝廷政治の中枢に食い込もうと画策していました。
讒言(ざんげん)によって罪に問われた官僚、政治家が
異様に多いのもこの時期であり、
政権内の力関係は大きく変わりつつあったのです。
無念だったにちがいないのですが、
家持が多賀城で詠んだ歌はまったく伝わっておらず、
当時の心情をうかがう術(すべ)はありません。