読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【103】奸臣と呼ばれた男


西園寺家の隆盛

入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)は
多くの解説本で本名を藤原公経(ふじわらのきんつね)と記しています。
しかし一般的には西園寺(さいおんじ)公経のほうが通りがよく、
辞書・事典の類はほとんど西園寺と表記しているようです。

公経は太政大臣を辞した翌年、
京都北山の別荘に西園寺を建てて移り住みます。
そのため公経は西園寺殿と呼ばれ、
家名としても西園寺を名告るようになりました。

北山の別荘は桁外れの豪邸でした。
のちに足利義満がこの土地を譲り受けて北山殿(きたやまどの)を造営し、
室町幕府の政治の中心地としたことはよく知られています。
その後義満の遺した金閣を中心に
北山殿の一部が寺院(=鹿苑寺)となり、現在に至っています。

 
公経の栄華のきっかけは
源頼朝の姪(めい)を妻にしたこと。
幕府との結びつきを強めた公経は実朝(九十三)の死後、
将軍の後継として二歳の孫(=のちの頼経)を鎌倉に送っています。

また後鳥羽院(ごとばのいん 九十九)らの起こした承久の乱では
朝廷側の動きをいち早く幕府に知らせて厚い信任を得ており、
乱の後は関東申次(かんとうもうしつぎ)に就いています。

関東申次は朝廷と幕府との連絡交渉にあたる要職。
京と鎌倉双方の事情に通じて大きな権限を持ちますが、
これを四代将軍頼経と血縁である西園寺家が世襲したのです。

さらに公経は後嵯峨天皇の後宮に入れた孫娘が
後深草天皇と亀山天皇を産んだことにより、
朝廷の最高権力者にまで登りつめます。


栄華の果ての思い

朝廷と幕府の対立に巻き込まれて
失脚していく同僚、ライバルの多いなか、
公経はどちらからも重要な人物と見なされていました。

そのため奸臣(かんしん)、抜け目のない政治家という評は
生前から絶えることがなかったのですが、そのいっぽうで
貴族的な教養という面でも公経は重要人物でした。
琵琶の名手であり、和歌にも多くの秀歌を遺しているのです。

子孫の実兼(さねかね)や公宗(きんむね)も
勅撰歌人として知られ、和歌と琵琶は西園寺家のお家芸でした。

公経は藤原定家(ていか 九十七)の妻の弟であったことから、
義兄の歌人活動を支援していたと伝えられます。
定家が百人一首に選んだのは、そんな恩人の
代表作ともいわれるこの歌でした。

 

花さそふあらしの庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり
(九十六 入道前太政大臣)

嵐が花を散らして雪が降ったかのように庭を白くしているけれど
(頭髪が白くなって)老いていくのはわが身なのだったな

雪のように風に散る花。
その美しい光景が一転して
みずからの終焉への思いに切り替わります。
引退した老政治家の胸に去来するものは何だったのでしょう。