続『小倉百人一首』
あらかるた
【104】竜安寺のルーツ
徳大寺家の誕生
石庭、あるいは枯山水という言葉を聞くと、
反射的に竜安寺(りょうあんじ)を思い浮かべる人も多いでしょう。
京都の代表的な名刹のひとつで正式には大雲山竜安寺といい、
室町時代に細川勝元によって建立されたものです。
しかしそれより前、
この地には藤原実能(ふじわらのさねよし)が建てた
徳大寺(とくだいじ)がありました。
実能は鳥羽天皇(在位1107~1123年)の皇后璋子(しょうし)の兄で
左大臣を務めており、徳大寺左大臣の通称で知られています。
百人一首歌人の後徳大寺左大臣(八十一)は
実能の孫にあたる藤原実定(さねさだ)のこと。
祖父と区別するため「後」がつけられています。
実能は九百年ほどつづくことになる徳大寺家の祖です。
ほかに兄弟の実行(さねゆき)は三条家を、
通季(みちすえ)は西園寺家(→前話参照)を興しており、
ともに清華家(せいがけ)となっています。
摂政や関白になれる家柄が摂関家(せっかんけ)ですが
清華家はそれに次ぎ、大将を経て太政大臣になることができました。
これは実能たちの父藤原公実(きんざね)の権勢によるもの。
公実は伯母が白河天皇を産み、妹が鳥羽天皇を産み、
妻が堀河、鳥羽両天皇の乳母(めのと)となることで
天皇家と密接に結びついていたのです。
公実は鳥羽天皇(五歳で即位)の伯父ですが、
家柄ゆえに摂政となることはできませんでした。
家柄という壁に阻まれた公実はしかし、
実力で息子たちを出世させ、清華家という家柄を与えました。
明治維新によってその特権が失われるまで、
実定を含む歴代当主はほとんどすべて大臣になっています。
歌壇の実力者公実
公実はすぐれた歌人でもありました。
『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に六十首ほどが採られており、
おもに堀河天皇の歌壇で活躍していたようです。
君が代にひきくらぶれば 子の日する松の千年もかずならぬかな
(後拾遺和歌集 春 左近中将公実)
我が君の御代(=治世)にくらべたら
子の日に引き抜く松の(寿命の)千年(ちとせ)も
ものの数ではありません
承暦(しょうりゃく)二年、
三十五歳の公実が内裏歌合(だいりうたあわせ)で詠んだもの。
この時の天皇は白河天皇でした。
昔見し妹(いも)が墻根は荒れにけり つばなまじりの菫のみして
(堀河百首 権大納言藤原公実)
かつて通っていたあなたの家の垣根は荒れてしまっていた
茅花(つばな=チガヤの花)に混じって
すみれが咲いているだけだったよ
『徒然草』に引用されて有名なこの歌は、
堀河天皇の意向で公実(一説には源俊頼 七十四)が企画した
百首和歌集に含まれるもの。
その『堀河百首』は十四人の歌人の百首歌を集めた大部の歌集で
のちの歌壇に多大な影響を及ぼしています。
歌人名一覧の筆頭に名があるのは身分の反映でしょうが、
公実は和歌の世界でも実力者だったのです。