読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【105】古代の人名


麻呂→麿→丸

百人一首では柿本人麻呂(三)と安倍仲麻呂(七)の
二人の歌人の名に「麻呂」がついています。
いかにも古代の男性名らしい感じですが、
これは言うなれば名前を作る際の接尾語でした。

奈良時代以前には「彦」、「雄」、「比登(ひと)」など
種類が多く、「子」は男女を問わず使われていました。
「麻呂」が多くなったのは奈良時代からといわれており、
「比登」が「人」に替わったのも奈良時代なのだそうです。
山部赤人(四)も当時は今風の名前だったのでしょう。

 
辞書や事典の表記が「麻呂」となっていても、
かるたや平安時代以降の歌集などでは
「麻呂」より「麿」と書く例が多く見られます。
「麿」は「麻」と「呂」を縦に重ねて作った和製の文字、国字です。
人麻呂でも人麿でも、どちらでも間違いではないのです。

明石にある人麻呂を祀った神社は人丸(ひとまる)神社といいます。
人麻呂と人丸では別人のような気がしますが、
「丸」は古くは「まろ」と読み、
平安時代には麿とともに用いられるようになっていました。

上流社会では男児の名に丸をつけるのが流行となり、
源義経の幼名牛若丸はその好例です。

 
幼名といえば、紀貫之(三十五)の幼名が
阿古久曾(あこくそ)だったというお話をしたことがありますね。
(旧バックナンバー【226】参照)
幼少時の名を元服とともに諱(いみな)に改める風習は
貫之の時代くらいに広まったと考えられています。

あこくそというよからぬ名は魔除けの意味があり、
「捨」や「末」の字をあえて使うのと同じ。
美しい名前は魔物に魅入られるかもしれないので、
魔物も避けて通るような名をつけたのです。

子ども時代を過ぎれば一安心、
というわけで元服時にようやく実名である諱がつけられました。
貫之のころの諱は漢字二文字が主流となっていました。


流罪と強制改名

改名に関してはこんな興味深い話があります。
奈良時代の政治家和気清麻呂(わけのきよまろ)が
称徳天皇の怒りを買って大隅(おおすみ)国に流された際、
穢麻呂(きたなまろ)と改名させられたのです。

称徳天皇はほかにも不破内親王(ふわないしんのう)を
厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)と改名して追放したことがあり、
流罪(るざい)にともなって名を変えさせる習慣があったのでしょうか。

 
穢麻呂は清麻呂の「清」を逆の意味の「穢」にしたもの。
厨女は台所で働く下女のことですから、
内親王という身分とのはなはだしい落差を意図したのでしょう。

そこまで貶(おとし)めたいほど憎かったのかと思いますが、
これには呪いの意味があったとも考えられます。
追放しただけでなく、その名にふさわしい境遇になってしまえと。

幸いなことに、称徳帝没後、
不破内親王は冤罪(えんざい)だったとして皇籍にもどされています。
清麻呂も罪を赦されて都で要職に就き、
桓武天皇の側近として平安京造営を担当、
歴史に名を残すことになりました。