続『小倉百人一首』
あらかるた
【107】立春はなぜ寒い
一定しなかった立春の日
立春は毎年二月の四日、もしくは五日。
そのたび「春は名のみの…」と
『早春賦』の一節を思い出す方も多いことでしょう。
二月初旬はまだ寒さの盛りだからです。
立春を含む二十四節気は二千数百年前に中国の華北、
黄河流域の気候をもとに定められたものでした。
かの地の春は日本より一か月ほど早いのだそうで、
もともと実情に合っていなかったのです。
旧暦を用いていた時代の立春は元日前後でした。
当時の一年は月の満ち欠けにもとづく三百五十四日で、
暦と季節とのずれを調整するため、十九年に七度の
閏月(うるうづき¬=十三番目の月)を置いていました。
(※旧バックナンバー【104/105】参照)
その結果立春の日は毎年異なり、早ければ十二月十五日、
遅ければ一月十五日になることもありました。
年のうちに春は来にけり ひとゝせをこぞとやいはむことしとやいはむ
(古今集 春 在原元方)
年が替わらないうちに春が来た(立春になった)
この一年(ひととせ)の残りを去年というべきか 今年というべきか
年内の立春はめずらしくないことだったのに
元方(もとかた)が悩むような歌を詠んだのは、
「立春年初」を理想とする考え方があったからだそうです。
毎年必ず立春が元日になるのが望ましいのに、
平均すれば立春が元日になるという曖昧さに
釈然としない思いがあったのでしょう。
立春歌の定番
春立つときゝつるからに 春日山きえあへぬ雪の花とみゆらん
(後撰和歌集 春 凡河内躬恒)
立春だと聞いたから 春日山の消えきらない雪が
花に見えるのだろうな
春立つといふばかりにや みよし野の山もかすみて今朝は見ゆらん
(拾遺和歌集 春 壬生忠岑)
立春になったというだけで 今朝は
あの(雪の)吉野山も霞がかかって見えるのだろう
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね 二十九)と
壬生忠岑(みぶのただみね 三十)の立春の歌です。
躬恒の歌では春日山の雪がまだ残っています。
忠岑の吉野山は通常雪の山として詠まれる山でした。
霞の向こうは雪が残っていたかもしれず、どちらも寒いのです。
立春の歌は寒さを詠んだもの、春の喜びを詠んだもののほかに、
祝賀の歌も多くあります。立春が新年の歌会の日に
選ばれることが多かったのと、祝いの屏風に立春が
描かれることがあったからです。
今日とくる氷にかへてむすぶらし 千歳の春にあはむ契りを
(後拾遺和歌集 賀 源順)
今日は氷が解ける立春ですが むしろ結ぶようですね
(わが君が)千年の春に会うであろう約束を
対語「とく」と「むすぶ」を効果的に用いた
源順(みなもとのしたごう)の一首。
どこにも立春とは書いてありませんが、
立春の日には氷が解けるのです。
袖ひちてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらん
(古今和歌集 春 紀貫之)
袖を濡らして掬(すく)った水が凍っているのを
立春の今日の風が解かしていることだろう
根拠は貫之(つらゆき )のこの有名な歌にあります。
立春には氷が解け、霞が立つ…。
先人の影響でそんな内容の歌が大量生産されて定番化し、
その数たるや枚挙にいとまがないほどです。
イメージとしての「立春」を重んじた結果なのでしょう。