続『小倉百人一首』
あらかるた
【110】梅の香
夜の梅
桜は姿を楽しみ、梅は香りを愛でるもの。
古くからそのように言い継がれていますが、
梅の香りを詠んだ和歌の多さはそれをよく示しています。
また梅の香りは夜でも漂うため夜の梅を詠んだ歌も多く、
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね 二十九)の一首は
その代表的なものです。
春の夜の闇はあやなし 梅の花色こそ見えね香やはかくるゝ
(古今和歌集 春 躬恒)
梅を見えなくする春の夜の闇はあやなし(=人が悪い)と
闇を擬人化して非難し、隠そうとしても
姿はともかく香りは隠れることがあろうかというのです。
藤原公任(五十五)はこの歌にコミットせずにいられなかったのか、
このように詠んでいます。
春の夜の闇にしあればにほひくる 梅よりほかの花なかりけり
(後拾遺和歌集 春 前大納言公任)
闇だからこそ梅だけが匂ってくるのです。
闇夜に匂いで楽しませてくれる花はほかにないでしょうと。
躬恒の歌の補足説明のような歌です。
さて、見えなければ見たくなるのが人情。
梅を探して折ってきてくれと頼んだ人に
躬恒はこんな歌を返していました。
月夜にはそれとも見えず梅の花 香をたづねてぞ知るべかりける
(古今和歌集 春 躬恒)
春の朧月夜に梅の花を見分けるのは難しいけれど、
香りを頼りに探せば見つけられるでしょうと。
この歌に影響されたのが大江匡房(まさふさ 七十三)でした。
にほひもて分かばぞ分かむ梅の花 それとも見えぬ春の夜の月
(千載和歌集 春 前中納言匡房)
どれが梅なのか匂いで判別しようと思えばできるでしょう。
春の月の下では見分けがつかないけれど。
これは本歌の語順を変えただけという印象で、
あらためて躬恒のうまさがわかります。
光も梅の香に
百人一首歌人の歌をつづけましょう。
春の夜は吹きまふ風のうつり香に 木ごとに梅と思ひけるかな
(千載和歌集 春 崇徳院)
「梅」の字を「木」と「毎(ごと)」に分解した
崇徳院(すとくいん 七十七)の一首。
これには紀友則(三十三)の前例があります。
雪降れば木ごとに花ぞさきにける いづれを梅とわきて折らまし
(古今和歌集 冬 紀友則)
雪が降ると木々がすべて白い花を咲かせたように見える。
折ろうにもどれが梅なのかわからないというのが友則。
風が運んだ移り香のせいで
どの木も梅だと思えてしまうというのが崇徳院。
友則の詠んだ視覚を巧みに嗅覚に置き換えており、
時間帯が夜だからこそ成立した歌ともいえます。
春の夜は軒ばの梅をもる月の 光もかをる心地こそすれ
(千載和歌集 春 皇太后宮大夫俊成)
軒端の梅を照らす春の月。その光までが芳香を漂わすようだと。
梅を洩る(=通り抜ける)月の光が移り香を帯びているのです。
古語「薫る」には匂いがするという意味以外に
匂い立つように美しい、輝くほど素晴らしいという意味もあります。
藤原俊成(八十三)はそれも意識していたかもしれません。