続『小倉百人一首』
あらかるた
【111】経信と禅僧
謎の僧との出逢い
大納言経信(つねのぶ 七十一)が
同好の士を募って西山の花見に出かけたときのお話です。
大堰川(おおいがわ)の千本桜(ちもとのさくら)を見た一行は
花が川面を漂い藻屑に交じるさまを見て心を痛めました。
風に散る桜に無常の世を思ったのでしょうか。
対岸に渡り、散策するうちに、
経信たちは木の下で禅定(ぜんじょう=瞑想)する
五十歳ばかりの僧に出逢いました。
僧はおのれの素性やそこにいる目的を訊かれても答えず、
あなたがたこそ何をしに来たのかと問いました。
経信が花を見に来たのだと言うと
僧は「われもしかなり(わたしもそうだ)」と答え、
教えを請われて「煩悩即菩提、生死即涅槃」と唱えました。
その意味を説いてもらった経信たちは闇が晴れる心地がし、
やはり「たゞ人」ではなかった、
このまま髻(もとどり)を下ろし(=出家し)て
同行(どうぎょう=共に修行する仲間)になりたいと思うほどでした。
煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)とは、
煩悩は人のあるがままの姿であり、
煩悩があるからこそ菩提(=悟り)があるという考え方です。
生死即涅槃(しょうじそくねはん)は、
生死を繰り返すことがすなわち涅槃であるということ。
涅槃は煩悩が滅した平穏安楽な状態を指します。
都に出て人々に教えを説くようにと
経信たちは口々に勧めましたが、僧は応じる気配もありません。
一行は夜もすがら法話に耳を傾け、僧は問いに答え、
気がつけば朝になっていました。
また参りますと再会を約した一行、
俊頼(としより 七十四)が「なきてぞ帰る春のあけぼの」と吟じますと、
僧はおもむろに「またも来む秋をたのむの雁だにも」と返しました。
後ろ髪を引かれる思いの別れでした。
しかし、その後尋ねて行った際には僧の姿はなかったということです。
無常を想う世相
上記は説話集『撰集抄(せんじゅうしょう)』所載の
「経信卿西山ノ禅僧ニ逢フ事」を短縮・意訳し、
若干の解説を加えたものです。
経信たちが大堰川に散る桜を見て物思いに沈んだという
件(くだり)は鴨長明の『方丈記』を思わせます。
『撰集抄』は『方丈記』の少し後の成立と考えられていますが、
経信や俊頼の活動していた平安後期は
すでに多くの人々が「無常」を意識した時代でした。
創作とはいえ、あり得ない話ではなかったのです。
話中の和歌は藤原良経(よしつね 九十一)の作で、
『新古今和歌集』に収められています。
またも来む秋をたのむの雁だにも なきてぞ帰る春のあけぼの
(新古今和歌集 恋 摂政太政大臣)
再び来るであろう秋を頼みにする田の面(む)の雁でさえ
春の曙には鳴いて帰っていくのです
一夜をともにした女性にまた会えるかどうかわからない、
そんな不安を詠んだ後朝(きぬぎぬ)の歌ですが、
ここでは僧との再会がかなわないかもしれないという
不安を詠んだ歌になっています。
帰る雁が世の無常を知って嘆くという良経の歌は、
禅僧に二度と会えないことを暗示するのに
好都合だったのです。