読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【118】悲恋の果てに


皇女との実らぬ恋

有名人の曾孫(ひまご)でリッチな
イケメンのアマチュアミュージシャン。
藤原敦忠(ふじわらのあつただ 四十三)は、
今でいえばそんな感じでしょうか。

父親は菅原道真(二十四)の政敵だった
左大臣藤原時平(ときひら)という実力者であり、
母親は在原業平(ありわらのなりひら 十七)の孫でした。

業平に似たのか美貌に恵まれ、
家柄のおかげで順調に出世をつづけ、
和歌と琵琶(びわ)の名手としても名をあげて、
敦忠は人もうらやむモテモテの貴公子だったそうです。

その恋愛遍歴はいかにも平安貴族らしい華やかなものでしたが、
若き日には切ない恋に悩むこともありました。

歌集『敦忠集』に収められた贈答歌を見ると、
醍醐天皇の皇女雅子内親王と恋仲になり、
しばらく順調に愛を育んでいたことがわかります。
ところが、

《詞書》
西四条の前斎宮まだ皇女(みこ)にものし給ひし時
こゝろざしありて思ふ事侍りけるあひだに
斎宮にさだまり給ひにければ
そのあくるあしたに榊の枝に付けてさしおかせ侍りける

伊勢の海の千尋のはまにひろふとも 今は何てふかひかあるべき
(後撰和歌集 恋 敦忠朝臣)

伊勢の海の千尋(ちひろ)の浜で拾うとしても
もはやなんの貝があるというのでしょう

醍醐天皇が病気のため譲位して朱雀天皇が即位したため、
新たな伊勢の斎宮(さいくう)として
雅子内親王が卜定(ぼくじょう)されたのです。

斎宮は未婚の内親王の中から占いによって選ばれ、
伊勢神宮に派遣されると天皇が退位するか
親の喪、病気などの事情がなければもどることができません。

あなたをどれだけ思っても、もう甲斐がないのか…。
この歌を神事に用いる榊(さかき)の枝に結んだのは、
内親王が神の領域に去っていくことの象徴でしょうか。


五年の後に

内親王は五年後に母親の喪のために都にもどりました。
歌のやりとりはすぐ再開されましたが、
五年という月日は二人にとって長かったようです。

世の中をわぶるわが身はひとつにて いかでこゝらのもの思ふらむ
(敦忠集)

世の中をつらいと思う我が身は一つなのに
どうしていくつもの悩みがあるのでしょう

返し

たれか我が身を二つにてものは思ふ いくらばかりをこゝらといふらむ
(敦忠集)

だれが我が身を二つに分けて悩むのですか
どれくらい(の悩み)をたくさんだと言っているのでしょう

内親王は友人の愚痴を軽くあしらっている感じです。
この時期の贈答歌は近況報告のような内容が多く、
淡々とした印象になっています。

結局二人の恋が復活することはなく、内親王はその後
右大臣藤原師輔(もろすけ)の妻となりました。
師輔は時平の弟、貞信公藤原忠平(ただひら 二十六)の子ですから、
敦忠の従弟(いとこ)と結婚したわけです。

かつての恋人が親戚になった敦忠、
どんな思いだったのでしょう。