続『小倉百人一首』
あらかるた
【119】近代六歌仙
定家が認めた近代六歌仙
藤原定家(ふじわらのていか 九十七)は承元三年(1209年)、
源実朝(みなもとのさねとも 九十三)の依頼を受けて
和歌の指南書『近代秀歌』を著し、鎌倉に送っています。
まず和歌の歴史に触れ、
宇多天皇の時代(=九世紀末)以前の歌を手本とすべきこと、
余情妖艶を目指すべきことなどが記されており、
簡潔ながら定家の歌論がわかりやすく展開されています。
定家は現在の歌はおしなべて「いやしきすがた」であると指摘。
そして古(いにしえ)の歌人たちに劣らない最近の歌人として
次の六人を挙げています。
・大納言経信卿
・俊頼朝臣
・左京大夫顕輔卿
・清輔朝臣
・亡父卿
・即ち此のみちを習ひ侍りける基俊と申しける人
(原文表記のまま)
いずれも定家が二十数年後に百人一首に選出した歌人たちです。
整理してみると
・源経信(みなもとのつねのぶ 七十一)
・源俊頼(みなもとのとしより 七十四)
・藤原顕輔(ふじわらのあきすけ 七十九)
・藤原清輔(ふじわらのきよすけ 八十四)
・藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい 八十三)
・藤原基俊(ふじわらのもととし 七十五)
となります。
経信と俊頼は親子。顕輔と清輔も親子。
亡父卿は俊成のことで、もちろん定家の父です。
基俊の記述がわかりにくいのですが、
これは「父俊成が和歌を教わっていた基俊という人」という意味。
定家は二組の親子と一組の師弟を
近代(=最近)の優れた歌人として認め、
実朝に推薦していたのです。
『近代秀歌』は巻末に
上記六人の歌を数首ずつ、秀歌の例として載せています。
そこには百人一首に採られた歌がすべて含まれており、
定家が早くからこれらの歌を高く評価していたことがわかります。
百人一首の元ネタ
定家は後日『近代秀歌』を改定増補し、手元に置いていました。
これが「自筆本」と呼ばれるものです。
実朝に送ったものとの最大の違いは秀歌の例の多さ。
上記六人以外の歌人も多く採られていて、
百人一首歌人がずらりと顔をそろえています。
当初選ばれた六人は最近の人物という条件があり、
さらに『古今和歌集』で採り上げられた六人(=六歌仙)を意識して
人数を六に合わせたと考えられます。
いっぽう自筆本は天智天皇(一)や小野小町(九)の歌も載せており、
『近代秀歌』というタイトルにそぐわない内容になっています。
しかしこれは他人に見せるつもりのない備忘録だったのでしょう。
歌の数は六十八首におよび、
のちに百人一首選定の参考資料に使われたと考えられています。
それにしても遠い鎌倉にいた源実朝が
百人一首につながりがあったとは、おもしろいですね。