続『小倉百人一首』
あらかるた
【120】土御門院御百首
定家・家隆を驚かせた若者
大阪の水無瀬神宮(みなせじんぐう)には後鳥羽院(九十九)、
土御門(つちみかど)院、順徳院(百)が合祀されています。
土御門院は百人一首に採られていませんが、
後鳥羽院の第一皇子で順徳院の兄にあたり、
優れた歌人として知られています。
たとえば『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』は
このようなエピソードを伝えています。
建保四年(1216年)のこと、院は百首歌を詠み、
家隆(いえたか 九十八)に送って見てもらいました。
あまりの出来栄えに驚いた家隆は
作者名を伏せて定家(九十七)に転送し、
歌の評価をするように乞いました。
定家は作者が誰とも分からぬまま評を書いていたのですが、
ある懐旧(かいきゅう)の歌を見て御製であることを知り、
驚き畏(おそ)れてしまいました。その歌とは、
秋の色をおくりむかへて 雲のうへになれにし月も物わすれすな
(土御門院御百首 雑二十首)
秋の景色を幾度も送り迎えて雲の上に馴れた月よ、
おまえもこの年月のことを忘れるなよと。
「雲のうへ」に馴れているのは雲上人(=宮廷に住む人)ですから、
定家は作者が土御門院だと気がついたのです。
家隆には若い人の作品だとしか伝えられていなかったそうで、
定家は「あさましくいだしぬかれまゐらせにけり」と述懐しています。
我ながらずいぶん油断していたものだというのです。
一流歌人による合点
作品を批評してよいものに丸や点などのしるしをつけることを
合点(がってん)といいます。
土御門院ははからずも当代最高の歌人ふたりに
合点を施してもらうことになりました。
院はこのとき二十二歳だったと思われますが、
家隆の点が九十八、定家の点が九十六ありますから、
百首のうちほぼすべての歌が秀歌と認められたことになります。
朝あけの霞の衣ほし初めて 春立ちなるゝあまのかぐやま
(土御門院御百首 春二十首)
家隆、定家両人が点をつけた立春の歌。
定家は「此の心を了簡(りょうけん=思案)するに
すがた言葉およびがたくまめやかに
ことにすぐれて目を驚かし候」と評しています。
持統天皇(二)の「衣ほすてふ天の香具山」に着想を借り、
山に衣を干しているかのように春霞が白く見えると。
季節を夏から春にしたことで、書いてはありませんが、
持統の「春すぎて夏きにけらし」が「冬すぎて春きにけらし」に
変わっているのがおもしろいところです。
むかし誰が住みけんあとの捨衣 岩ほの中に苔ぞのこれる
(土御門院御百首 雑二十首)
これもふたりが褒めたたえた一首。
巌(いわお)の中、つまり岩屋一面を覆う苔(こけ)を
僧が捨てていった衣に見立てているのですが、
僧衣を苔の衣、苔衣(こけごろも)と呼ぶことを活かし、
尊い修行僧への追慕の念さえ感じさせる歌になっています。
『土御門院御百首』は若き日の習作と見なす向きもあります。
しかし家隆、定家の賞賛がすべてお世辞とは思えず、
院が若くして優れた歌人であったことは間違いないでしょう。