続『小倉百人一首』
あらかるた
			【121】海上遠望
遠くを見る歌
パソコンやスマホから目を離して遠くを見るのは
  目の筋肉の緊張をほぐすだけでなく、
  脳のリフレッシュ効果も期待できるのだとか。
  空の雲を見たり地平線や水平線に目をやるのもよさそうですが、
  百人一首には藤原忠通(ただみち)の遠くを見る歌が選ばれています。
    わたのはらこぎいでてみれば 久方の雲ゐにまがふ沖つ白波
    (七十六 法性寺入道前関白太政大臣)
    広々とした海原に舟を漕ぎ出してみると
    雲と見まがうほどに沖の白波が立っていることだ
  崇徳院(すとくいん 七十七)の与えた
  「海上遠望」という題に応えて詠んだ一首です。
  はるかな沖の白波が雲と見分けがつかないというのですから、
  まさに「遠望」です。
  とはいえ忠通の歌は題詠であって、実体験ではありません。
  遠い目で想像していた可能性はありますが、
  実体験といえば旅する歌人西行(さいぎょう 八十六)でしょう。
    わたの原波にも月はかくれけり 都の山をなに厭ひけん
    (玉葉和歌集 秋 西行法師)
    海の波にさえも月は隠れるのだった
    (月を隠す)都の山をどうして嫌ったのだろう
  三方を山に囲まれた都では
  東山が昇る月を隠し、西山が沈む月を隠します。
  しかし海路に見る月は波が隠すのだったと。
海の叙景歌
わたの原やへの潮路にとぶ雁の 翅の波に秋風ぞ吹く
    (新勅撰和歌集 秋 鎌倉右大臣)
    大海の幾重もの潮の流れを越えて飛ぶ雁(かり)の
    翅(つばさ)の波に秋風が吹いていることだ
  源実朝(みなもとのさねとも 九十三)は
  海辺で雁の群れを見て詠んでいます。
  海の縁語を「わたのはら」「潮路」「波」と連ねた叙景歌で
  写実とも言えますが、波型になって飛ぶ雁の翅に
  秋風が吹くという想像/創造が抒情性を生んでいます。
    わたの原目にみぬ風をしるべにて 浪路の舟の行くもはかなし
    (玉葉和歌集 旅 衣笠前内大臣)
    海原の目に見えぬ風をたよりに
    波路を越えて行く舟の心細いことよ
  作者は定家の弟子だった衣笠家良(きぬがさいえよし)。
  広々とした海を舟が遠ざかっていく、
  その光景を「はかなし」と感じたのは
  みずからの思いを投影したからでしょう。
    波の上にうつる夕日の影はあれど 遠つ小島は色くれにけり
    (玉葉和歌集 雑 前大納言為兼)
    波の上に映る夕日の姿ははっきりしているが
    遠くの小島の姿はすでに夕暮れの色に沈んでしまった
  定家の曾孫(ひまご)京極為兼(ためかね)の歌です。
  実朝のような想像/創造はなく、
  家良のように「はかなし」とも言っていない、
  風景を淡々と描写しただけに思える歌。
  何を感じ取るかは読む者に委ねられています。
