続『小倉百人一首』
あらかるた
			【129】人目
二つの意味の「人目」
  百人一首には人目(ひとめ)を詠んだ歌が二首あります。
  しかしそれぞれ意味が異なり、
  藤原敏行(ふじわらのとしゆき)の歌の人目は
  他人の目を表しています。
    住の江の岸による波 よるさへや夢のかよひぢ人めよくらむ
    (十八 藤原敏行朝臣)
    住の江の岸に寄る波は夜も昼も同じなのに
    あなたは人目を避けて夢にさえ出てきてくれないのでしょうか
  上二句は「夜」を導く序詞(じょことば)。
  人目につかない夜の、それも夢の中でさえ
  会いに来てくれないのかという恨みの歌です。
  敏行歌と同じ『古今和歌集』に内容のよく似た
  わかりやすい歌があります。
    うつゝにはさもこそあらめ 夢にさへ人めをもると見るがわびしさ
    (古今和歌集 恋 こまち)
    実際にはそういう(人目を気にする)こともあるでしょうが
    夢の中でさえ人目をはばかるように見えるのが切ないのです
  王朝和歌には人目を気にする恋の歌が山ほどありますが
  これほど素直な歌はめずらしく、ほとんどが工夫を凝らしたもの。
  歌会などの題に「忍ぶ恋」が出されることが多かったためで、
  皇族であろうと既婚者であろうと、はては僧侶であろうと、
  人目を忍ぶ恋を詠んでいます。
    恋しともいはゞ心のゆくべきに 苦しや人目つゝむ思ひは
    (新古今和歌集 恋 近衛院御歌)
    せめて恋しいとでも(口に出して)言えば気が済むだろうに
    苦しいものだ 人目をはばかり慎(つつ)む思いは
    よしさらば涙に朽ちねから衣 ほすも人目を忍ぶかぎりぞ
    (千載和歌集 恋 顕昭法師)
    どうせなら涙に朽ちてしまえ唐衣よ
    干すにしても人目を忍ぶしかないのだから
人の行き来も人目だった
  敏行の人目は他人の目を指しますが、
  かつては人の行き来という意味でも使われていました。
  源宗于(みなもとのむねゆき)の歌はその好例です。
    山里は冬ぞさびしさまさりける 人めも草もかれぬと思へば
    (二十八 源宗于朝臣)
    山里は冬こそ寂しさがまさるものだ
    人が訪れなくなり 草も枯れてしまうと思うと
  人の行き来が離(か)れる/涸(か)れるのを
  草が枯れるのに掛けています。
    とふ人もあらじと思ひし山里に 花のたよりに人め見るかな
    (拾遺和歌集 春 清原元輔)
    訪ねてくる人もないだろうと思っていた山里に
    桜の知らせを聞いてやってくる人々を見かけるようになったな
  清原元輔(きよはらのもとすけ 四十二)の歌では
  寂しかった山里に人通りがもどってきています。
  その中には立ち寄っていく人もあったでしょう。
    草がくれ庭になれたる鹿のねに 人めまれなる程を知るかな
    (玉葉和歌集 雑 守覚法親王)
    草に隠れるような庭に馴染んだ鹿が鳴く その声に
    ここは人影まばらな鄙(ひな=田舎)なのだと思い知ることだ
  守覚法親王(しゅかくほっしんのう)は後白河天皇の子で
  仁和寺の門跡(もんぜき=住職)だった人物。
  人通りもなく、いつもの鹿が庭を訪れるだけの住まいで
  作者はどれほど孤独な日々を過ごしていたのかと思いますが、
  これは和歌の名手だった法親王の創作です。
