続『小倉百人一首』
あらかるた
【131】子の日の遊び
寿命を延ばす小松引き
宮廷では正月最初の子(ね)の日、
野辺に出て小松を引く行事がありました。
小松は小さい松、若い松を指し、同じ日に摘んだ
若菜を羹(あつもの=吸い物)にして食べていました。
新しい生命を取り込んで無病息災を祈る
まじない、呪術の意味があり、
小松を引くのは松の霊力にあやかり長寿を得るためでした。
引きつれて今日は子の日の松にまた いま千歳をぞのべにいでつる
(後拾遺和歌集 春 和泉式部)
大勢で連れ立って今日は子の日の松を引き
さらに千年の寿命を延べに(野辺に)出てきたことです
「引き」を「小松引き」に響かせ、
「延べ」に「野辺」を掛けた和泉式部(五十六)の一首。
命を延べるために小松を引いていたことがわかります。
子の日すと春の野ごとにたづぬれば 松にひかるゝこゝちこそすれ
(詞花和歌集 春 新院御製)
子の日の遊びのために春の野をあちらこちら訪れていると
(むしろわたしが)松にひかれているような気がすることだ
崇徳院(すとくいん 七十七)は小松を探しているつもりが、
逆に小松に誘導されている気がするというのです。
理想的な小松選びに時間をかけていたのでしょう。
船岡山に遊ぶ円融院
平安中期、円融院(在位969-984年)の
子の日の遊びの様子が伝わっています。
院の一行は堀川を発って二条通、大宮通を経由して
船岡山へ向かったのですが、その道筋は
多くの物見の車で埋め尽くされていたそうです。
随行する上達部(かんだちめ=公卿)や殿上人の
衣装は絵にも描けない美しさ。
祭りの行列と変わらなかったからです。
船岡山のある紫野には唐錦(からにしき)の幕を張り、
板敷を構えて勾欄(こうらん=宮殿ふうの欄干)を巡らせてありました。
院の御座所近くには上達部の席、次に殿上人の席があり、
幕で仕切られた末席が歌詠みたちの席でした。
歌詠みたちには院から廻文(かいぶん=回覧文)が出されており、
衣冠(いかん)を正して(=準正装で)席についていました。
歌会が始まるのです。
(『百人一首一夕話』より抄出)
同話を載せる『今昔物語集』によれば場所は船岡山の北面。
小松の生えたところに遣水(やりみず)を流し、
石を立てて砂を敷いたとあります。
白砂青松(はくしゃせいしょう=海辺の美しい風景)の
ミニチュアを作ったのでしょうか。
円融院は遊楽を好んだと伝えられますが、
それにしても贅沢な、大掛かりな遊びです。
語り継がれてきたのは例外的な規模だったからでしょう。