続『小倉百人一首』
あらかるた
			【132】能因の師と友
和歌史上初の師弟関係
能因(六十九)は百六十七首からなる小規模な私撰歌集
  『玄々集(げんげんしゅう)』を遺しています。
  自身と同時代の歌人九十二名の作品を集めており、
  最も多く採られているのは藤原長能(ながよし)の十首。
  長能は能因の和歌の師でした。
  能因がまだ俗名の橘永愷(たちばなのながやす)だったころ、
  文章生(もんじょうしょう=大学寮*の学生)時代に
  所用で出かけた際に車の輪が壊れてしまいました。
  かわりの車を取りに行かせたのですが、
  壊れた場所というのがたまたま長能の家の前。
  長能は当時の歌壇の中心人物でした。
  以前から面識を得たいと思っていた永愷は
  長能の家で車の到着を待たせてもらいながら
  和歌の奥義の伝授を乞い、師弟の関係を結びます。
  これは和歌史上初の師弟関係といわれています。
  その際永愷が歌はどのように詠むべきかと訊ねると、
  長能は大江嘉言(おおえのよしとき)の
  この歌を例として挙げたと伝えられます。
    山深み落ちて積もれるもみぢ葉の かわける上に時雨降るなり
    (詞花和歌集 冬 大江嘉言)
  山が深いから多くの紅葉が落ちて積もって乾いていただろう。
  嘉言は時雨降る山の情景を想像したのですが、
  雨音は「びちゃびちゃ」ではなく「ぱさぱさ」に違いないと。
  乾いた葉に降る雨音を思い浮かべるほど、
  作者は鋭敏な感覚を持っていたのでしょう。
友との別れ
嘉言は能因と同じく文章生だったことがあり、
  その後ふたりは親交を結ぶようになります。
  また上記『玄々集』には「山深み」を含む
  嘉言の四首が採られています。
    ひぐらしに山路のきのふ時雨しは 富士の高嶺の雪にぞありける
    (玄々集 嘉言四首)
  これも時雨の歌。昨日は日暮し、つまり一日中、
  作者の歩いた山道は時雨れていました。
  そして今朝、富士の高嶺に雪が積もっているのを見て、
  あの雨は富士では雪だったのだと気づいたのです。
    《序詞》
    対馬になりてまかり下りけるに 津の国のほどより
    能因法師の許につかはしける
    命あらば今かへり来む 津の国の難波堀江の蘆のうら葉に
    (後拾遺和歌集 別 大江嘉言)
  対馬守(つしまのかみ)として赴任する嘉言が
  摂津の国の難波の水路あたりで詠んだという別離の歌。
  ここから対馬に向けて船出したのですが、
  難波名物の蘆(あし)が風に裏葉を見せるように
  すぐにでも帰って来ようというのです。
  しかし嘉言は赴任後まもなく対馬に没し、
  再会はかないませんでした。
  能因の家集『能因集』には友の死を悼む挽歌が載せられています。
*大学寮=官吏養成の教育機関
