続『小倉百人一首』
あらかるた
【137】ほどほどの人相
貞信公藤原忠平をめぐる言い伝え
醍醐天皇在位中のこと、高麗人(こまうど=渡来人)の
相人(そうにん)が宮廷に招かれました。
『源氏物語』の「桐壺」の巻にも出てきますが、
相人は人相を見て将来を予見する、一種の占い師です。
天皇が人相を見させたのは皇太子保明(やすあきら)親王、
左大臣藤原時平、右大臣菅原道真(二十四)の三人。
相人が言うには、
第一の人は容貌がこの国には優れすぎ、
第二の人は賢慮がこの国には収まらず、
第三の人は才能がこの国には余りすぎ、
いずれも長続きしないだろうと。
そして相人は末座に控えていた時平の弟、
忠平(ただひら 二十六)を見て、この人物こそ形容、
心操(=心構え)、才能のいずれもこの国に適っており、
長くお仕えすることになるだろうと
太鼓判を押したのです。
この話を載せる『古事談』は、
忠平が相人の見立てに不満だったと記しています。
自分は他のことでは兄の時平に及ばないが、
賢慮(=賢い考え)については少しも劣っていない。
賢慮さえ敵わないとすれば恥ではないかと。
相人の言葉を言い換えれば、
時平の賢さはこの国に合わない、
忠平ていどの賢さでよいというのです。
さらに容貌で親王に劣り、才能で道真に負けているとなれば、
けなされたと感じても不思議はありません。
長命だった忠平
はたして相人の見立てが正しかったのか、
保明親王は即位せず、道真は左遷され、
時平は短命に終わり、兄の跡を継いだ忠平は
要職を歴任して太政大臣にまで昇っています。
《詞書》
天暦三年太政大臣の七十賀し侍りける屏風によめる
たづのすむ沢辺の蘆の下根とけ 汀萌えいづる春は来にけり
(後拾遺和歌集 春 大中臣能宣朝臣)
七十賀(ななそじのが)は数え年七十歳の祝宴。
忠平の七十賀は天暦三年三月に延暦寺で行われています。
太政大臣の長寿の祝いですから、
さぞや盛大な催しだったことでしょう。
祝いのために新調された四季絵の屏風に添えるため
大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ 四十九)が
詠んだのが上記の一首。
長寿の象徴である鶴が沢辺におり、
その足元では蘆(あし)の下根の氷が解け、
汀(みぎわ=水際)にまた春が来ましたよと、
さらなる長寿を願うような内容です。
めでたい話のように思えますが、
忠平が七十歳になっても太政大臣を続けていたのは、
辞めたくても辞めさせてもらえなかったから。
最晩年に詠まれたと思われるこんな歌が遺されています。
今年より若菜にそへて老の世に 嬉しきことをつまんばかりぞ
(後撰和歌集 慶賀 太政大臣)
新年の若菜摘みに掛けて、
自分は老後に嬉しいことを積みたいだけだと。
若菜を贈ってくれた人への返礼の歌らしいのですが、
寒さに耐えて若菜を摘むような(つらい)仕事は
若い者に任せたいと言いたかったのかもしれません。
※旧バックナンバー【78】参照