続『小倉百人一首』
あらかるた
【139】文武両道の父
怪物退治の英雄
二条院讃岐(にじょういんのさぬき 九十二)の父、
源頼政(みなもとのよりまさ)は平安時代末期の武将。
源三位(げんざんみ/げんのさんみ)頼政の通称で知られています。
保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)で活躍した
重要な人物なのですが、その生涯はよくわかっておらず、
伝説・伝承の世界、つまり史実とは異なる世界で
「超」がつくほど有名になっています。
たとえば『平家物語』には
このような武勇談が記されています。
近衛天皇の在位中、
宮中に毎夜異変が起こっていました。
森の方角から流れてくる黒雲が御殿の屋根を覆い、
そのたびに天皇がおびえて気絶してしまうというのです。
警固を命ぜられたのは弓の名手、頼政でした。
頼政は大胆にも部下を一人連れただけで宮中に向かいました。
そして草木も眠る丑(うし)の刻(=午前二時頃)、
立ちこめた黒雲のなかに見えた怪物に矢を射ると、見事に命中。
落ちてくるところを部下が駆け寄り、とどめを刺しました。
怪物は頭は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇という姿をしており、
鳴き声は鵺(ぬえ)に似ていたといいます。
鵺は虎鶫(とらつぐみ)の異名で、
人間の悲鳴に近い鳴き方をするので、古来忌み嫌われてきました。
俊成も脱帽した歌の実力
さて、天皇は頼政の勇気を称えようと、
「獅子王」と呼ばれる伝来の剣を授けました。
取り次いだ左大臣藤原頼長(よりなが)が階段を下りていくと、
ほととぎすが鳴きながら上空を飛んでいきます。
そこで左大臣、
ほとゝぎす名をも雲井にあぐるかな
と詠いかけました。
頼政は膝をついてかしこまり、
弓張り月のいるにまかせて
と下の句をつけ、剣を賜って退出しました。
それを聞いた人々は、頼政は弓矢だけでなく
歌にもすぐれた人物だったかと感嘆するばかりでした。
上の句の「雲井」は空の高みという意味で宮中をも指し、
頼政が名をあげたことをほととぎすが声をあげたことに重ねています。
下の句は射るにまかせて偶然に仕留めただけですという謙遜。
卯月十日すぎの丑の刻といいますから、
弓張り月(上弦の月)が西に沈もうとしていたのでしょう。
『無名抄』によると、藤原俊成(しゅんぜい 八十三)が
こんなことを言っていたそうです。
俊恵(しゅんえ 八十五)はうまいが
俊頼(としより 七十四)には及ばず、
俊頼はよく考えているが頼政にはかなわない。
歌会の席に頼政がいると「してやられた」と思うことが多いのだよ。
頼政の歌は五十九首が勅撰和歌集に採られています。
数では娘の七十四首に及びませんが、俊成が称賛したように
同時代の歌人たちからは一目置かれる存在でした。
頼政にまつわる話に武勇と和歌の組み合わせが多いのは、
それを反映しているのです。
※近衛天皇は三歳で即位し、十七歳で崩御しています。