読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【141】歌をなぞった恋


西行と女房の温泉旅

西行(八十六)の家集『山家集(さんかしゅう)』に
ある女房との歌のやり取りが収められています。

《詞書》
潮湯にまかりたりけるに 具したる人
九月つごもりに先に上りければつかはしける
人にかはりて

秋は暮れ君はみやこへ帰りなば あはれなるべき旅の空かな
(山家集下 西行)

返し

君を置きて立ち出づる空の露けさに 秋さへ暮るゝ旅のかなしさ
(山家集下 大宮の女房加賀)

秋は終わり、あなたは都に帰ってしまったので
この旅は寂しいものになるだろうというのが西行の歌。
「べき」は推量の助動詞「べし」の連体形です。

潮湯(しおゆ)は塩分を含んだ温泉のこと。
湯治のための逗留だったのでしょうか、
一緒に行った人が先に都に帰ったので詠んだとありますが、
これは代詠です。先に帰った人の連れに頼まれたのでしょう。

作者名によれば返歌を詠んだのは加賀という女房でした。
あなたを置いて出てきた日は露で湿っぽかったけれど、
秋の暮れでもあり、帰路の悲しみが増していますと。
「露けし」には涙で湿っぽいという意味もあります。

この女房は待賢門院(たいけんもんいん)加賀のようです。
大宮とあるのは徳大寺公能(きんよし)の娘で近衛天皇の皇后、
次いで二条天皇の后となった多子(まさるこ)のことで、
『平家物語』にも大宮という呼び名で出てきます。

多子に仕える女房たちの温泉旅に西行が同行していたと
思われますが、西行は十代のころ徳大寺家に
武人として仕えていたことがあり、
出家後も公能らとの交友を続けていました。
多子の女房たちとも知り合いだったのでしょう。


秘めておいた悲恋の歌

待賢門院加賀は『千載和歌集』に採られた
この歌がよく知られています。

《詞書》
花園左大臣につかはしける

かねてより思ひしことぞ ふし柴のこるばかりなる嘆きせんとは
(千載和歌集 恋 待賢門院加賀)

以前から思っていたことでした。いずれ
恋に懲りてしまうほど嘆くことになるだろうと。

「樵(こ)る(=木を切る)」と「懲(こ)る」を掛けた恋の歌。
「嘆き」の「き(木)」は「樵る」の縁語であり、
「伏柴(ふししば)」の「伏す」は「嘆き」の縁語です。

この歌がひらめいたとき、加賀は恋をしていませんでした。
今これを発表しても真実味がない。
そう考えた加賀は、実際に懲りるほど嘆く恋をするまで、
この歌をしまい込んでおいたのです。

数年後、加賀は源有仁(みなもとのありひと=花園左大臣)と
恋仲になり、有仁の訪れが途絶えがちになったころ、
詞書にあるようにこの歌を「つかはし」ました。

有仁はたいそう心を動かされたそうですが、
歌は『千載和歌集』に採られて加賀は勅撰歌人となり、
さらに「伏柴の加賀」と呼ばれて有名歌人の仲間入りを果たしました。