続『小倉百人一首』
あらかるた
【142】つれないのはどっち
恋人も月もつれなかった?
藤原良経(よしつね 九十一)にこんな歌があります。
有明のつれなく見えし月は出でぬ 山ほとゝぎす待つ夜ながらに
(新古今和歌集 夏 摂政太政大臣)
薄情に見えた有明の月は出た
山ほととぎすを待つ夜はずっと続いたままで
「有明」は夜が明けても月が残っていること。
「ながら」はそのままの状態がつづくこと。
夜が明けても待つ夜の状態がつづいているというのは、
一晩中待っていたのに山ほととぎすが来なかったからです。
この歌の本歌は言うまでもなく
壬生忠岑(みぶのただみね)の百人一首所収歌です。
有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし
(三十 壬生忠岑)
つれないそぶりに見えた夜明け前の別れがあってから
暁ほどつらく恨めしいものはありません
つれなく見えたのは恋人であると解釈すると
上記のような訳になります。
良経はつれなく見えたのは月であると考えて
忠岑の歌を引用したのでしょう。
ほととぎすが来なかったのは月のせいではありません。
しかし落胆しているところにしらじらと出ている
有明の月は冷たいやつだなぁと。
忠岑の歌については
江戸末期の学者尾崎雅嘉(まさよし)が
『百人一首一夕話(ひとよがたり)』にこう書いています。
恋人が自分の訪問に知らぬふりをして逢ってくれなかった。
その帰り道、もう朝だというのに知らぬふりをして月が出ていた。
そんなことがあってからというもの、
暁がつらくてならないのだと。
尾崎によれば恋人も月もつれなかったのです。
定家のつれない月
藤原定家(九十七)は月をつれなしとする歌を
いくつか詠んでいますが、
次の一首は巧みな本歌取りで知られています。
おほかたの月もつれなき 鐘の音になほうらめしき有明のそら
(拾遺愚草上)
月はだいたい冷たいものだけれど
(朝を告げる)鐘の音がしても空に月が残っているのは
なおさら恨めしいものだ
本歌は忠岑の「有明の」ともう一首、
藤原道信のこの歌です。
あけぬれば暮るゝものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな
(五十二 藤原道信朝臣)
夜が明ければまた夕暮れがやってきてあなたに会える
そうとは知りながらも恨めしい明け方であることよ
定家の歌には一見して恋の歌らしさが見当たりませんが、
月、つれなき、うらめしき、有明とたたみかけられて
読み手はついつい忠岑や道信の歌を思い出し、
恋の歌だろうと感じてしまう仕掛け。
さすが名手ですね。