続『小倉百人一首』
あらかるた
【145】安達原の鬼(前)
苦悩する鬼
能面の一つ般若面は、
よく見ると怒りとも悲しみともつかぬ表情をしています。
般若はもともと鬼だったのではなく、
わけあって鬼のようになってしまったのです。
面には若い女を表す小面(こおもて)と同様の髪が描かれています。
ただその髪は乱れており、表情とともに
その人物の内面をあらわしています。
般若面を用いる代表的な演目『葵上(あおいのうえ)』の
シテ(=主役)は、みずからの嫉妬心にさいなまれる
六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)。
生霊(いきすだま)となって光源氏の正妻葵上を苦しめますが、
御息所自身もままならぬ我が身に苦しんでいます。
また 『黒塚(くろづか)』
(観世流では『安達原(あだちがはら)』)にも
般若面の鬼女が登場しますが、
そのあらすじはこのようなものです。
陸奥(みちのく)の安達原を行く
阿闍梨(あじゃり=高僧)祐慶(ゆうけい)と
連れの山伏たちが野中の一軒家に宿を借ります。
住んでいたのは老いた女。女は世の憂さや
独り暮らしの孤独を嘆いているのでした。
夜も更けたころ、女は閨(ねや=寝室)を見るなと告げて
薪(たきぎ)を採りに出かけます。
しかし怪しんだ山伏の一人が閨の戸を開けてしまい、
山のように積まれた人骨を発見。
さてはこれが噂に聞いていた安達原の鬼女なのか。
黒塚に鬼が籠るという昔の歌はほんとうだったのか。
祐慶たちは今のうちにとこっそり逃げ出しますが、
それを知った女は恐ろしい鬼の姿に変じて後を追います。
しかしついには祐慶によって降伏(ごうぶく)、
つまり法力によって屈服させられ、夜の闇に消えていきます。
兼盛の戯れ歌
祐慶たちが思い出した昔の歌というのは
平兼盛(かねもり 四十)のこの一首です。
《詞書》
陸奥に名取の郡(こほり)黒塚といふ所に
重之がいもうとあまたありと聞きていひ遣はしける
陸奥の安達の原の黒塚に 鬼こもれりと聞くはまことか
(拾遺和歌集 雑 兼盛)
陸奥の名取郡黒塚という所に
源重之(しげゆき 四十八)の妹が何人もいると知り、
そこに鬼が籠っていると聞いたがほんとうかと、
兼盛は友人の重之をからかっています。
重之の父源兼信(かねのぶ)は清和天皇の孫、
地方官を務める下級貴族でした。
いつの頃からか拠点を都から陸奥に移していたようで、
重之の妹たちもそこに住んでいたと思われます。
兼盛はそれを深窓の令嬢と見なし、
鬼が塚に籠るように家に籠っているのかと
戯れてみせたのです。
→後編に続く