読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【150】もみぢちるらし


山の紅葉を想像する

『金葉和歌集』に百人一首歌人親子の
よく似た歌が収められています。

音羽山もみぢ散るらし 逢坂の関の小川ににしきおりかく
(金葉和歌集 秋 源俊頼朝臣)

三室山もみぢ散るらし 旅人の菅の小笠ににしきおりかく
(金葉和歌集 冬 大納言経信)

逢坂の関の小川に錦を折り懸けたように紅葉が流れている。
それを見て音羽山の紅葉が散っているのだろうというのが
源俊頼(としより 七十四)の歌。
音羽山は逢坂の関の南、山城(=京都南東部)と
近江(=滋賀)の境界に位置します。

俊頼の父経信(つねのぶ 七十一)が詠んだのは
歌枕の地でもある斑鳩(いかるが)の三室山です。
旅人の菅(すげ)の小笠に錦のように紅葉がついているのは、
三室山の紅葉が散っているからだろうと。

どちらも山の紅葉が散っているだろうというのですが、
人麻呂(三)はこんなふうに詠んでいます。

龍田河もみぢ葉流る 神なびのみむろの山に時雨ふるらし
(拾遺和歌集 冬 柿本人麻呂)

三室山の別名とされる神南備山(かむなびやま)は
神の鎮座する、もしくは降臨する山を意味します。
また御諸(みもろ→御室とも)も神が天降る場所を示すので、
三室山と神南備山は同義と言えます。

その三室山に時雨が降っているらしいと思ったのは、
竜田川に紅葉が流れているからなのです。


推量の根拠

上記三首はいずれも散る紅葉を詠んだものですが、
詠み手は実際に紅葉の散るさまを見ていません。
さらに共通しているのは推量に根拠、確信があることです。

俊頼は逢坂の関の小川の紅葉、経信は笠の上の紅葉を見て、
音羽山や三室山の紅葉が散っていると確信したのです。
人麻呂は流れる紅葉を根拠に三室山に降る時雨が
紅葉を散らせていると詠んでおり、
何を根拠とするか、歌人たちは競い合っていたかのようです。

照射すと秋の山辺にいる人の 弓の矢風にもみぢ散るらし
(好忠集年中日次歌 秋)

照射(ともし)は夜の狩りに用いる松明(たいまつ)、
篝火(かがりび)などの火のこと。
鹿をおびき出し、鹿の目が光を反射するのをめがけて
弓を射たのだそうです。
矢風(やかぜ)は飛ぶ矢が起こす風のことです。

曽祢好忠(そねのよしただ 四十六)は
照射の装備をして山辺に入る人を根拠に、
あの狩人の放つ矢で紅葉が散ることだろうというのです。

照射という言葉によって夜であることを示し、
矢風で紅葉が散るであろうと予測し、
照射の光を受けながらはらはらと散る紅葉を想像させる。

巧者好忠ならではの一首ですが、
美しいいっぽうで紅葉のように散るであろう
鹿の命まで予測していたのではないかと、
つい深読みしてしまいます。