続『小倉百人一首』
あらかるた
			【151】急がば回れ
瀬田の長橋
 ことわざ「急がば回れ」は
  琵琶湖の渡し舟が語源と言われています。
  その根拠として挙げられるのが、室町時代の連歌師
  宗長(そうちょう)の作というこの歌。
ものゝふの矢橋の舟ははやくとも 急がばまはれせたのながはし
  「武士(もののふ)の」は「矢」にかかる枕詞。
  矢橋(やばせ)から出る渡し舟は早いが、
  急ぐなら瀬田の長橋に遠回りしたほうがよいというのです。
  琵琶湖南部の草津から対岸の大津に渡る渡船があり、
  船着き場があったのが矢橋でした。
  いっぽう琵琶湖南端から湖水が流出する
  瀬田川に架けられていたのが瀬田の長橋。
  舟ならば草津から大津まで直線で行けますが荒天に舟は出せず、
  ことに冬から春にかけては比叡おろしが吹きます。
  転覆の危険さえありますが、遠回りでも陸路なら安心。
  天候の回復を待っている間に
  橋を渡ったほうが早いこともあるのです。
  ではどれくらい遠回りだったのか。
  源兼昌(みなもとのかねまさ 七十八)に
  このような歌があります。
    にほてるや矢橋の渡りする舟を いくそたび見つ瀬田の橋守
    (歌枕名寄巻廿四 源兼昌)
  瀬田の橋を守る人(=橋番)は矢橋の渡し舟を
  幾十度(いくそたび)見たことだろうと。
  橋から渡し舟の往来が見えていたようです。
  瀬田の橋と矢橋とはさほど離れていないのですが、
  舟では一時間ほど、橋を渡れば四時間ほどかかったそうです。
  ところで、宗長は駿河府中(現静岡市)から都への旅の途次、
  往路復路ともに大津に宿をとっています。
  しかし本人の遺した手記には舟に乗ったとも
  橋を渡ったとも書かれておらず、
  「急がば回れ」が本人の実感だったかはわかりません。
  あくまで推測ですが、「急がば回れ」は実は宗長とは無関係な、
  この界隈の俚謡(りよう=民衆の間に伝わっていた歌)だったと
  考えられないでしょうか。
琵琶湖は鳰の海
 兼昌の歌に枕詞として用いられている「にほてるや」は、
  にほてる(鳰照る)、すなわち鳰(=かいつぶり)が
  映えるという意味かと思われます。
  また琵琶湖を詠んだ歌には「にほてる」がしばしば使われますが、
  琵琶湖が「鳰(にお)の海」と呼ばれていたからでしょう。
    辛崎やにほてる沖に雲消えて 月のこほりに秋風ぞ吹く
    (続後撰和歌集 秋 後京極摂政前太政大臣)
  藤原良経(よしつね 九十一)の歌の辛崎は大津の唐崎(からさき)。
  月が水に映ってきらめくようすを「月の氷」といいます。
  晴れた空に昇った月が琵琶湖の沖の水面に映り、
  秋風が起こしたさざ波がそれを散らしているのです。
    にほのうみや霞みて暮るゝ春の日に 渡るも遠し瀬田の長橋
    (新後撰和歌集 春 藤原為家)
  春霞の中、暮色に染まっていく琵琶湖。
  渡し舟はもう出ないのでしょう。
  急がば回るしかない、瀬田の長橋は遠回りだけれど。
  為家(ためいえ)に選択肢はなかったようです。
