続『小倉百人一首』
あらかるた
【153】公任の負けず嫌い
三船の才
藤原公任(ふじわらのきんとう 五十五)を語る際に
「三船(さんせん)の才」(*1)という言葉がよく使われます。
三船とは詩の船、歌の船、管弦の船のこと。
大堰川などの舟遊びではこれら三つの船を川面に浮かべ、
詩歌管弦それぞれの得意な者を乗せて競わせました。
公任や源経信(みなもとのつねのぶ 七十一)など、
どの船に乗っても優れた才能を発揮する多芸多彩な人物を
称える言葉が「三船の才」でした。
このうち公任の管弦の才にまつわる逸話があります。
豊楽院(ぶらくいん¬=大内裏のイベント会場)で
御神楽(みかぐら)が行われた日、
当日拍子をとるはずだった公任は、土壇場になって近くにいた
藤原斉信(ただのぶ)に笏(しゃく)を差し出しました。
斉信は公任の一歳年下のライバルです。
神楽は篳篥(ひちりき)、神楽笛(かぐらぶえ)、
和琴(わごん)と笏拍子(しゃくびょうし)で伴奏されます。
笏拍子は貴族男子が持つ笏を縦に割ったような木の板で、
左手の笏を右手の笏で叩いて拍子をとります。
簡単なようですが、リズムを主導する重要な役目を担います。
管弦にも自信を持っていた公任は
経験のない斉信が固辞するだろうと思ったのですが、
予想に反して斉信はすんなり笏を受け取り、
難なく大役を果たしたのでした。
斉信は笏拍子も公事(くじ=朝廷の政務、儀式)の一つと考え、
ひととおり学んで準備していたのです。
この一件が手柄と見なされ、斉信は公任より上の官位を得ることに。
思わぬ結果に公任は仮病を使って仕事を休み、
さらに中納言の職を辞すると決めて
赤染衛門(五十九)の夫、大江匡衡(おおえのまさひら)に
辞表の起草を依頼(*2)しました。
辞表には公任の一族が先祖代々朝廷に貢献してきた旨が
縷々(るる)綴られており、これが功を奏して
公任は斉信を越えて大納言に任ぜられました。
抜かれた官位を抜き返したのです。
*1=旧バックナンバー【20】参照
*2=旧バックナンバー【10】参照
負けず嫌いが生んだ三十六歌仙
ある日のこと、村上天皇の皇子で博学多識、かつ詩歌管弦に優れ、
書の達人で医術、陰陽道、仏教にも通じていたという
スーパーインテリ具平(ともひら)親王と
和歌を論じ合っていた公任、貫之を歌仙だと述べたところ、
人麻呂には及ばないと一蹴されてしまいました。
承服しかねた公任は後日、親王とともに
人麻呂と貫之の秀歌各十首を持ち寄って比較を行いましたが、
判定は人麻呂の八勝という一方的な結果に。
公任の不満は収まらず、その不満を引きずったまま、
人麻呂、貫之を含む過去の歌人の優劣を論じるための
架空の歌合を作成。何段階かを経て、
最終的に公任は三十六人の秀歌を集めた
『三十六人撰』を編むことになりました。
この影響力は絶大でした。選ばれた歌人たちが
三十六歌仙と呼ばれただけでなく、これ以降中古三十六歌仙、
女房三十六歌仙、新三十六歌仙などが
次々と選定されました。
江戸俳諧の連句で三十六句で一巻となるものを
「歌仙」と呼ぶのも『三十六人撰』の影響です。
公任が負けず嫌いでなかったら
以後の架空の歌合は生まれなかったかもしれず、
「三十六」が特別な意味を持つことも
なかったかもしれません。