読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【159】俊恵の桜


桜の枝折

平安末期の歌壇に重きをなした僧侶歌人俊恵(しゅんえ 八十五)。
面倒見のよい優しい人物だったと伝えられており、
遺された家集『林葉(りんよう)和歌集』にも
穏和な印象の歌が多く収められています。

よし野山ふかく入るとも 春のうちは桜が枝をしをりにはせじ
(林葉和歌集 春)

吉野山に桜を求めて深く分け入ったとしても、
花の咲いている春のうちは桜の枝を折ったりはするまい。
枝折(しおり)とは帰り道が分からなくならないように
木の枝などを折って道しるべにすることですが、
春の間はやめておこうというのです。

おのづから家づとにこそなりにけり 道の頼りに折れる早蕨
(林葉和歌集 春)

自然な流れで家苞(いえづと=みやげ)になったよ、
道しるべに折っておいた早蕨(さわらび=新芽を出したわらび)が。
目印に折った早蕨を家に持ち帰ったというだけなのですが、
ほのぼのとした行楽の一日が思い浮かびます。

影やどす花のした行く山水を掬(むす)ぶは 手折る心地こそすれ
(林葉和歌集 春)

花の下を流れる山水(やまみず)に花の姿が映っているから、
掬ぶ(=水を両手で汲む)と花の枝を折るような気がすると。
手のひらの水にも花が映り、まるで手折るかのように
見えたのが俊恵には面白かったようです。

《詞書》
日の暮れ方に房(ばう)の花を人々まうできて折りけるを見て

暮れぬとて折りなつくしそ桜花 月にも人の尋ねやは来ぬ
(林葉和歌集 春)

俊恵の僧房の桜でしょうか。
日が暮れたからといって折りつくすな。
月夜の桜を見に来る人がいないとも限らないではないか。
後から来る人のためにとっておけというのですから、
月夜の桜を折る人が想定されています。


花を折る風雅

桜狩(さくらがり)や観桜(かんおう)の宴で
花を折るのは珍しいことではありませんでした。

花をこそ折りてかざすに あやしくも袂に雪の降りかゝるらん
(林葉和歌集 春)

花を折ってかざしたはずなのにおかしいではないか。
どうして袂(たもと)に雪が降りかかるのだろう。
「かざす」は「翳す」だと頭上にかかげること、
「挿頭す」だと冠や髪に挿して飾りにすること。
いずれにしても袂に散る花びらを雪に見立てています。

白雲とよそにや見ゆる山桜 折りにといひし人の来まさぬ
(林葉和歌集 春)

遠くからは白雲に見えるであろう一面の山桜。
一緒に折ろうと言っていた人はやって来ない。
作者はともに桜を折る風雅の友を待っていたのです。
折ることが前提とは、現代人の風雅とはだいぶ異なりますね。

※バックナンバー【88】参照
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続『小倉百人一首』あらかるた【88】伊勢物語の桜