続『小倉百人一首』
あらかるた
			【162】こりずまに
わかっちゃいるけど
しょうもない考えや好ましくない感情にとらわれ、
  そこから抜け出せなくなってしまう…。
  そんな状況を詠んだ歌によく使われているのが
  「こりずまに」という言葉です。
    束の間も止まらで行くと知りながら 猶こりずまに惜しき春かな
    (堀河百首 春 中宮権大進仲実)
  ちょっとの間も立ち止まらず去って行くと知りながら、
  それでもなお春を惜しむ気持ちは抑えられない。
  藤原仲実(なかざね)の惜春(せきしゅん)の歌です。
  「こりずまに」は性懲りもなく、それでもなお
  といった意味ですから、かつてそのことで失敗していたり、
  痛い目に遭ったり、つくづく思い知らされたりしているのです。
    憂きものと思ひとりても こりずまにまたながめつる秋の夕暮れ
    (続後撰和歌集 秋 雅成親王)
  気分が沈んでしまうものだとわかっているのに、
  凝りもせずにまたぼんやり見ていたよ、秋の夕暮れを。
  「思ひとる」は悟る、理解するという意味なので、
  雅成(まさなり)親王もわかっていてもやめられなかったのです。
  ふたりとも嘆いているような口ぶりですが
  悩んでいるわけでも困っているわけでもなく、
  むしろ去り行く春を、秋の夕暮れの寂しさを、
  しみじみ味わっていたのでしょう。
恋に懲りない心
「こりずまに」を用いた作品は多くが恋の歌。
  藤原基俊(もととし 七十五)の次の歌は
  待つ女を詠んだ典型的な例です。
    こりずまになをも待つかな 冬の夜の有明の月のいでやと思へば
    (基俊集 下)
  懲りもせずにまだあなたを待っていることです。
  冬の夜の明ける頃、有明の月のように
  あなたがいらっしゃるのではないかと思うから。
    恋せじと誓ひてし身を いかにしてこはこりずまに思ひ初むらん
    (堀河百首 恋 源師頼)
  恋はするまいと誓ったわたしなのに、どういうわけで
  懲りもせず(また新しい人を)好きになり始めたんだろう。
  師頼(もろより)の誓いはさほど固いものではなかったようです。
  上記二首は素直ですが、
  ひとひねりした「こりずまに」を詠んでいるのが
  藤原為氏(ためうじ=二条為氏)です。
    懲りずまにさのみな吹きそ 今来むと云ひて空しき庭の松風
    (新千載和歌集 恋 前大納言為氏)
  凝りもせずにそんなに吹くな庭の松風よ。
  すぐ行くと言った約束は空しかったのに、
  風の音をあの人の訪れと勘違いしてしまうかもしれないから。
  「松」と「待つ」が掛詞なのはもちろんですが、
  懲りていないのが松風なのか自分なのか
  曖昧にしているのが巧いところです
