続『小倉百人一首』
あらかるた
			【163】小倉付
     江戸時代は俳諧の隆盛期でした。
  しかし同じころ、芭蕉や蕪村などの風雅と異なり、
  滑稽さや言語遊戯を優先した句も詠まれていました。
  これはもとの俳諧と区別するため雑俳(ざっぱい)と呼ばれ、
  のちに川柳(せんりゅう)の名で親しまれるようになりました。
  さて、元禄時代、その川柳界に冠付(かむりづけ)が流行します。
  既存の歌や句から何文字かを採って句を作るもので、
  中でも百人一首から五文字を採ったものを
  小倉付(おぐらづけ)と呼んでいました。
○春過ぎて 蚊帳が戻れば夜着が留守
  持統天皇(二)の歌を素材にした小倉付の例で、
  「春過ぎて」を冠として中七、下五を付けています。
  本歌は「春すぎて夏きにけらし」とつづきますが、
  春が過ぎたらどこかから蚊帳が戻って、入れ替わりに
  夜着(よぎ=綿入れなどの冬の夜具)が出て行きました。
  じつは蚊帳が戻ってきたのは質屋からで、夜着の行く先も質屋。
  庶民は香具山の白妙(しろたえ)の衣ではなく、
  質屋の行き帰りで夏の訪れを実感すると言いたいのでしょう。
○かくとだにいへば 奉公の口もある
  字を書くとさえいえば就職口もある。
  字の書けない人は少なかったと思われますが、
  きれいに正しく書ける人は有利だったでしょう。
  本歌は藤原実方(さねかた 五十一)の恋の歌
  「かくとだにえやはいぶきのさしも草」です。
○きりぎりす 泣くとおさへる歌がるた
  藤原良経(よしつね 九十一)の歌の
  「きりぎりすなく」までを活かした一句。
  かるたの不得意な人が「きりぎりすなく」まで聞いて
  ようやく手を伸ばしたのです。
身近だった百人一首
かるた遊びだけでなく寺子屋の教材に用いられ、
  多くの解説書も出版されていた百人一首は
  江戸時代の人々には最も身近な歌集でした。
  川柳の題材としてはうってつけだったのでしょう。
○ちぎりきな むねふさがりてかやひろし
  清原元輔(もとすけ 四十二)の末の松山。
  契った相手に何があったのか、胸塞がることがあって
  ひとり寝の今宵の蚊帳は広く感じられるのです。
○朽るから 沖の石ともよめぬ袖
  二条院讃岐(にじょういんのさぬき 九十二)は
  潮が引いても見えない沖の石のように、
  わたしの袖は乾く間もないと詠みました。
  しかし涙で朽ちてしまう袖は沖の石に例えることさえできない。
  作者は自分の悲しみは讃岐以上だというのです。
小倉付ではありませんが、最後にこんな句を。
○詠まぬ同士 名に痛入る和歌の浦
  歌を詠まない者同士が旅をしたようです。
  古来歌枕として知られる和歌の浦を訪れたのはよいが、
  地名にちなんで一首ひねり出すほどの才はない。
  「痛み入る」は恐縮する、恐れ入るといった意味ですから、
  こんなとき和歌を詠むくらいのたしなみがあったらなぁという
  自省の川柳なのかもしれません。
