続『小倉百人一首』
あらかるた
			【164】恋の沼
 何かに夢中になって抜け出せない状態を
  「沼にハマる」というようですが、
  和歌の世界で夢中になって抜け出せないのはほとんどが恋。
  『古今和歌集』に恋と沼を詠んだこのような歌があります。
    みちのくのあさかの沼の花かつみ かつ見る人にこひやわたらむ
    (古今和歌集 恋 よみ人知らず)
  「こひわたる」は長いあいだ恋い慕いつづけること。
  「かつ見る」はその一方で会うこともあるというのでしょう。
  会えないわけではないが、言い出せない。
  自分は愛しいあの人をこの先ずっと
  思いつづけるのだろうかというのです。
  言いたいことは第四句、五句に書かれており、
  第三句までは「かつ見」を導く序詞(じょことば)です。
  とはいえ、沼の花かつみを持ち出したのは
  沼ハマ状態の恋を暗示しているようにも思えます。
  この歌が脳裏にあったのか、芭蕉は『おくのほそ道』の旅で
  陸奥(みちのく)の安積(あさか)の沼の花かつみを探しています。
    此(この)あたり沼多し
    かつみ刈る比(ころ)もやゝ近うなれば
    いづれの草を花かつみとは云ぞと人々に尋(たづね)侍れども
    更知(さらにしる)人なし 沼を尋(たづね)人にとひ
    かつみかつみと尋ありきて日は山の端にかゝりぬ
    (おくのほそ道)
  このあたりは沼が多い。そろそろかつみを刈る頃と思い、
  どの草を花かつみと呼ぶのか地元の人たちに尋ねたけれど、
  まったく知っている人がいない。
  沼を探し「かつみかつみ」と尋ね歩いて日が暮れたと。
  芭蕉は沼探しの沼にハマることなく
  その日のうちにあきらめたようです。
歌の沼
沼を詠んだ恋の歌には
  隠沼(こもりぬ/かくれぬ)という言葉がよく出てきます。
  茂みや木立に蔽われて見えない沼、あるいは
  山奥にあって人に知られていない沼を指し、
  藤原忠房の次の歌はその典型的な例です。
    隠れ沼にしのびわびぬるわが身かな 井手の蛙となりやしなまし
    (後撰和歌集 恋 藤原忠房朝臣)
  「しのびわぶ」は忍びきれない、忍ぶのがつらいこと。
  人知れず思いを抱きつづけて、わたしはいっそ
  井手(=井堰)の蛙(かわず)になってしまいたい。
  声を上げて泣きたいというのでしょう。
  忠房の歌は簡潔かつ素直ですが、
  俊恵(しゅんえ 八十五)は難解で複雑な沼を詠んでいます。
    我が恋は人知らぬまの浮ぬなは 苦しやいとどみこもりにして
    (林葉集 恋)
  「ぬなわ(蓴)」は蓴菜(じゅんさい)を指し、
  縄のように細長い根茎を泥中に伸ばすため「沼縄」とも書きます。
  「みこもり(水隠り/水籠り)」は水中に隠れること。
  水面に浮いているのは長い柄の先の丸い葉のみ。
  「人知らぬ間」に「沼」を掛け、
  浮蓴のように葉は出している(=姿は見せている)けれど
  茎(=本心)を沼に隠しているのが苦しいというのです。
  凝り性の俊恵らしい手の込んだ作品と言えますが、
  俊恵は歌の沼にハマっていたのでしょう。
